35.消えた宇品港のかっての賑わいを伝えた被爆建物(南区宇品海岸二丁目)

消えた八百徳商会、山県屋旅館、旅館宇品館

戦前の宇品港の軍人、家族、商人等で賑わった建物が、「被爆建物」というにはちょっと遠いのですが宇品地区には、つい最近まで(2000年以降)まだわずかながら残っていましたが、南道路建設の進捗に伴いついに消えてしまいました。(2002年5月更地となったのを確認)。戦前の賑わいを思い出すと壊すには忍びないとご主人達は言っておられましたが、ついに全て消えてしまったのが、残念です。これらは、もう撮ることの出来ない写真になってしまいました。

   八百徳商会(元南区宇品海岸二丁目19−13) 「港町宇品共和国」というのをなさっている方から「港町宇品マップ」というものを頂いて、木造被爆建物を三軒知ることとなりました。いずれも爆心から約4.6キロぐらいの地点であり、屋根瓦が飛んだり、ガラスが割れたり、梁が傾いたりしたぐらいの被害だったようです。船に食品を納めるために明治30年ごろに創業された八百徳商会の場合、取り壊し前まで商売していた建物はかなりの補修が必要でしたが、煉瓦で補強されている倉の被害はほとんど無かったといいます。

写真はいずれも1995年5月27日撮影
   
   
 山県屋旅館(元南区宇品海岸二丁目18−17) 大正期に建てられ、3階は昭和期に入って増築されたということですが、ここも「八百徳商会」と同じような程度の被害で、補修され、長らく営業されてきました。1997年中国新聞の連載特集記事に「港の旅館」として、長期滞在者中心でやっているが、黒光りする玄関等は昔の貫禄をつたえているとあり、女主人は「せめて看板だけでも」と言っておられる旨の記事が出ていました。  
   
   
   

元旅館「宇品館」(元南区宇品海岸二丁目17−8)は、もう少し前に取り壊されてしまっています。民家で、電車通りに面した木造3階建てでした。被爆時のことや、被害の状態については、その時の住民の方がかなりお年寄りでちょっと判らないのではないのかと、隣のクリーニング屋さん(この家も無くなっています)の話でした。ちなみに隣のクリーニング屋さんの家も原爆にあったが、被害はあまりなかったということでした。

 この3軒の例のように、被爆建物を「被爆建物等継承方策検討委員会」の定義に従って爆心から5キロ以内とすれば、4キロあたりから民家など発表されていない、ないし判明していない被爆建物はかなりあると思わますが、判明してもどんどん減ってきているようです。