49.邇保姫神社・戦捷紀念碑・手水舎   (南区西本浦町12−13)

 邇保姫神社の本殿は江戸中期の1700年代前半に建てられた。爆心地から南東約3・6キロで、原爆投下時、爆風で社殿は傾き、四方の扉は吹き飛び、瓦はすべて落ちたというが、四方の扉もほぼ壊れたが、何とか使用に耐え、家を失った被爆者の救護施設として使われた。

被爆後4年ぐらいかかってして、屋根等を修理し、再建されたという。由来は4世紀から始まり、300年以上の歴史のある秋の例祭などを通じてこのあたりの中心的神社となっている。

そして本殿、拝殿、手水舎(ちょうずしゃ)が1996年に市の被爆建物リストに登録されていた。

しかし、2007年9月27日未明の大火災で本殿、拝殿、社務所など4棟が全焼し手水舎だけが残った。

 

この神社はこの地区の中心的神社、2011年3月末に新社殿が再建されたという。国道2号線から東に黄金山へ途中に、邇保姫神社への標識がある。

写真はいずれも2012年10月13日撮影。

 
   
  火災で唯一残った手水舎と手水鉢 
   
 
   
   

入り口石段下右に邇保姫神社と書かれた門柱がある。

邇保姫神社門柱、横に紀元二千六百年記念、裏に仁保 大河、楠那 國民学校 と刻まれている。「紀念」となっていないので近年建てられたものではないかと思われる。

 

門柱には「忠誠護国」「孝敬事神」と刻まれ後ろに「大正三年六月」という文字が読める。

   
 

門柱左に「陸軍砲兵中佐深山亀三郎君殉職之碑」というのが立っている。

 

 
   
   

そして、門柱右裏に「戦捷記念碑」というのが建っている。陸軍中将正四位勲一等功二級男爵木越〜書、右横に明治四十一年五月建之というのがなんとか読めるが、写真では木の葉が邪魔して紹介できない。

左横は、難しい漢字の羅列で、現地で時間をかけなければ読み取れないが、韓国の内乱で清国と戦ったということを書いているよう。

裏には「出征軍人」とあり、上に、「明治丗八年三月○日戰死 故陸軍歩兵一等卒繻エ兼夫、明治丗七年九月廿九日戰死 故陸軍歩兵上等兵 山本安次郎 明治丗三年九月十三日戰死 故陸軍歩兵伍長 久保田佐太郎、外明治丗八年三月戰死3名の名前が刻まれ、その下に、出征兵士の名前であろう、明治廿七八年役11名の名前、明治丗三年役七名の名前、明治丗七八年49名の名前が刻まれている。

 

ただ表の「記念碑」お「記」の文字が「紀」でないのは?戦後書き換えられたものではないのか?そういえば「戦」の字はどうだったのか?「戰」の字になっていたのか?チョット確認し忘れました。