48.稲生神社・本殿・渡殿 (南区西霞町24−21)

   国道2号線から東の住宅街に入ったところの小高い山裾の下から門柱、階段を上がったら被爆建物の本殿、渡殿がある。

階段の下の看板に広島市が設置している説明プレートが張り出してある。

「被爆建物 被爆時の名称 稲生神社(爆心から3,340m)

階段上の社殿のうち本殿と渡殿は、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。

広島市」

その左に「稲荷(いなり)神社 祭神 宇気母智神 例祭 二月初午日 由緒 宝暦元年(一七五二創建、鎮座地の十軒屋は大河浦の北端にして比治山山麓六軒屋と相対し、早くより交通の要地として開けた。村民家門の繁栄を祈るため稲生神社を建て、十軒屋講その他を提供し、尊信した奉る。

神社に御用の際は 邇保姫神社までお願いします。電話281−4538 広島市南区西本浦町12−17」と書かれてある。

本殿には由緒が張ってあり、元は島(仁保島)だった、江戸時代に埋め立てられ陸続きになったこの地区の歴史が判る。被爆のことも記されている。

「 御祭神 宇気母智神(うけもちのかみ)

由緒

寛文二年(西暦一六六二)仁保島で比治山が干拓により陸続きとなる。その後、元禄五年(西暦一六九二)広島藩四代藩主浅野綱長候が比治山のお茶屋に茶亭を新築され、茶亭から前方に見える山麓附近の眺望を良くするため、蒲刈島か農家十軒をこの地に移される。これより当地を十軒屋と呼ぶようになる。

 その後、元禄十二年(西暦一六九九)頃附近一帯の新開地には田畑が広がる。村民は農作物と、豊漁を祈ると共に家内の繁栄を願うため宝暦元年(西暦一七五一)京都の伏見稲荷神社から熊鷹稲荷大明神を勧請されたのである。

 現在の稲生時神社本殿は明治十八年(西暦一八八八五)二月二十七日に再建され、昭和十一年二月社殿の改修、戦後の昭和二十二年九月原子爆弾の爆風により破損した箇所の補修が行われ、昭和六十二年三月神社の拝殿が建て替えられる。

 当稲生神社は五穀豊穣を守護する農業神、商売繁盛、家内安全、子孫繁栄、学業成就の神として信仰されている。

 例祭日

旧暦二月初午、邇保姫神社宮司によって神事がとり行われている。

(現在の例祭日は旧暦二月初午より前の日曜日となっている。)」

   
 

右が被爆建物、本殿、下左が渡殿、特に被爆の痕跡は改修されているためだろうが、判らない。門柱は古く被爆時以前からの物と思われるが、石造りの遺跡は全焼区域のもの(爆心から約二`ない)を被爆遺跡と定義しているため、特に採りあげない。狛犬は真新しい。

写真はいずれも2012年10月13日撮影。