54.西福寺・本堂・庫裏・山門・鐘楼(南区仁保二丁目12−20)

 西福寺の現在の本堂・山門・鐘楼は1803(享和3)年に建立されたもので、北門と経堂は大正期のもの。爆心地からは4,620m。黄金山の山裾の陰だったにもかかわらず、庫裡が傾くなどの被害を受けた。被爆直後の応急措置から一応の修復をしたのは1958年で、本格的な庫裡の改修は、1994)年に行われた。

入り口に説明板が立てられている。写真は2012年10月13日撮影。

 

「香鳩山 西福寺 本堂及び庫裏

(爆心地より 約4キロメートル)

第2次世界大戦の末期 一九四五年(昭和二〇年)八月六日午前八時十五分、米軍爆撃機により投下された史上初の原子爆弾が、広島上空約六〇〇メートルで炸裂し、一瞬にして広島市は焦土と化した。

 幸いにしてここ仁保地区は、焼失を免れた。しかし、一八〇三年(享和三年)再建された本堂は、強力な爆風により、建具や天井等は吹き飛ばされ、内陣の仏壇・仏具は、多く破損した。

 戦後、五十年を経て、一九九五年(平成七年)本堂屋根の葺きかえ、そして二〇〇五年(平成一七年)本堂廊下の張替等を、門信徒のご寄付及び広島市被爆建物等保存・継承事業の助成により、保存事業を実施し、被爆の実態を後世に伝えたい。

二〇〇五年(平成一七年)四月」
 
   
   
   
 

広島市の)被爆建物リストでは、爆心から4,620m、山門、鐘楼も被爆建物となっている。

「西福寺

恵心院香鳩山(えしんいんこうとうざん)と号し本尊は阿弥陀仏立像、文亀元年(一五〇一年)真言宗として本浦に創立されたのが開基といわれ、北小路中納言輔道郷の二男後権丸、出家して法名玄清と名乗り諸国巡歴の途次廃寺となっていた同寺を再建され、その後、現在地の淵崎に移り、真宗となりmさした。現在の本堂は、享和二年九月(一八〇三年)に再建されたと伝えられ、真宗開基玄清以降その子孫が住職を継承しています。本堂裏に往古躑躅を似て その名高かった明治天皇にゆかりのある庭園があります。

仁保郷土史会 仁保公民館」という看板も立っている。
 
   
   

写真は上から山門、本堂、庫裏、鐘楼。2012年10月13日撮影。このあたりの被爆建物は、爆心からの距離は遠いが、広島市の被爆建物保存継承事業により改修されており、特に説明でもして貰わない限り、外から被爆の痕跡を見るのは難しいようだ。

今や、被爆68年、取り壊されるよりは、被爆の痕跡は無くなっても保存、というのはやむを得ない選択かも知れない。