1−1.多聞院 広島郵便局殉難者の碑 鐘楼 灯籠 八時の鐘  (南区比治山町7−10) 

       比治山への登り口にある爆心から遠く離れたこの辺りも、木々の葉は熱線に焼かれて変色しました。殉難碑は初め原爆ドーム近くの西蓮寺にあったのが移されたものです。裏を見て下さい。殆どは女性の名前です。想像を絶した高熱に人体は原形をとどめず、遺骨として渡されたのは骨粉、灰はツボに納められて供養、288名の合祀塔は作られたといいます。

左の写真は2005年6月19日。
   
右の写真は2002年8月6日のフィールドワークにて。  
   
    この多聞院には被爆当日の夕刻、県庁の防空本部がおかれ、被爆者の救援にあたりました。この近代的に見える多聞院の中にも被爆遺跡があります。十三重の灯籠が、被災者と救護にあたった人々を見守った物です。

左の写真は2005年6月19日。
   
    そしてその西にある鐘楼は、ハリが折れたままの被爆の痕跡を残しており、その中の「八時の鐘」と呼ばれるつり鐘は、今もノー・モア・ヒロシマと刻まれています。

左の写真は2002年8月6日のフィールドワークにて。
   
 

下に二つの説明板が立っています。

「多聞院(爆心地から約1.75キロメートル)

原爆の爆風により瓦が全部落下した多聞院本堂には、一九四五(昭和20)年8月6日夕刻、倒壊・全焼した県庁に替わり県防空本部が置かれました。翌日、県庁は東警察署に移りましたが、同院は救援物資の受付や、比治山に逃げてきた多数の被爆者などに握り飯の配給を行いました。爆風で梁を破損した鐘楼は、現在もそのまま保存されています。

(爆風により屋根を大破した本堂 1945年9月下旬 松本栄一氏撮影)」

「多聞院 

毛利氏が郡山城下吉田に建てた真言宗寺院である。広島城築城とともに三滝山麓に移され、さらにこの地に移されたのは慶長9年(1604)、福島氏の時代である。この寺の鐘楼、十三塔は奇跡的に原爆による破壊を免れている。

左の写真は2003年6月25日
 
   
    境内には、「日本外史」を著した頼山陽の一族の墓と儒学者で浅野藩に仕えた植田昆背の墓があり、いずれも県指定の史跡となっている。

左の写真は2013年4月3日撮影。
   
左の写真は2013年4月3日撮影。