2.頼山陽文徳殿 (南区比治山町7−2)
繁華街の被爆した日本銀行裏にも「頼山陽記念館」が1995年建て替えられています。教科書でも余りたいして取り上げられない「頼山陽」が広島で出てくるのはなぜでしょうか。130年以上前の明治維新の話になりますが、広島の浅野藩は、隣の山口県の毛利藩に比べ、明治維新で日和っていたため、戦前では余り誇るべき先達者がいなかったのです。唯一、その50年くらい前に広島で幽閉中に「日本外史」という皇国史観の書物を書いた人が、尊皇倒幕運動の先駆けとなったとして引っ張りだされ、広島の誇りとされて、1932年に建てられたものです。 「被爆建物 被爆時の名称 山陽文徳殿(爆心地から1,820m)
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左の写真は2014年5月7日 | |
原爆との関係では、爆心から1820メートル。その屋根に取り付けられた九輪の塔が、原爆の高温と爆風圧によって、楕円形に変形し、西側爆心地の方角に傾いたままになっています。 この建物は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。なお、爆風で変形した屋根飾り(九輪)は当時のままです。 広島市」と説明プレートが付けられています。 右の写真は2013年4月3日 |
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被爆樹木 ソメイヨシノ 爆心地から1800メートル このソメイヨシノは、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、生き残りました。 左の写真は2013年4月3日撮影。。 |
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右の松も被爆樹ですが、枯れてしまっています。 「広島県天然記念物 比治山のクロマツ 広島市南区比治山町7−1 天然記念物指定 昭和28年8月11日 樹高3m、胸高幹囲2.8mの老木で、 は東西15mにも及んでいます。その長く伸ばした居る枝を猿の手に見立てて、猿候造りとよんでいます。この特異な枝張りは、人為的に仕立てたもので、園芸技術を知るうえで重要な資料です。 また、市内の残る老樹としても貴重なものです。 昭和61年2月 広島県教育委員会」 という古い説明板がそばにあいます。2013年4月3日撮影。。 |
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1994年3月21日豊永恵三郎さん等と。 |