9.殉職消防職員之碑  (南区比治山公園3) 

   

「忠魂墓碑」をすぎると「御便殿跡」への道の左に「殉職消防職員之碑」「広場開設記念碑」「殉職警察職員之碑」と続きます。
 戦前、水主町(今の加古町)の県庁舎前に建っていました。被爆により損壊、碑は三つに割れて倒れました。戦後公共施設には慰霊碑がつくれず、1950年、比治山公園の奥深く移転されました。新たに原爆死した職員も合祀されました。全部で832人の名前が刻まれています。

裏面に3段の銅板レリーフ「この碑は元水主町旧武徳殿前に存し原爆に被災倒壊せるを此の地に移築再建したものである。昭和二十五年十一月広島縣碑建設委員会」とあり、576の名前が刻まれ、さらに下に、252名の名前が「広島県消防殉職者芳名」として「追加補修工事 昭和四十一年七月 財団法人 広島県消防協会」追加されているのが判ります。


 当時、東・西消防所に配置されていた消防官は約四百人。その内即死者64人、その後の死亡62人の記録が残っていますが、当時の「公文書」のいい加減さは、その後の証言によってことごとく覆されていることから、この銘板の方がたしかであろう。もっとも原爆以外の犠牲者の名前も含まれているとおもわれますが。

この碑には悲しい二筋の傷痕が走っています。消防職員は、殆どの被災者が自分の事だけで精一杯だった中で、重症のわが身を顧みず、救援に奮闘、任務を果たすと安心したように死んでいったといいます。被爆遺跡でもあります。

   
 

被爆遺跡といえば、又、そばに広場開設記念、昭和十年二月、廣島市長という記念碑もあります。読んでみます。

「本市はニ公衆衛生保健ノ為ノ比治山公園内の廣場開設の企望アリ而して時機未タ熟セス荏苒日ヲ渉ル 茲に義人坂本竜太郎アリ奮然起ッテ壱萬八千圓ニ相當スル労力ヲ寄附セラル 本市ハョテ以テ廣場及小園路ヲ開設スルコトヲ得タリ 公園ノ面目之カ為ニー新三便利ヲ得ル 亦夥シ且當時財界不況の中幾多の失業者ヲ救済ス 其ノ公益ニ資スル實ニ尠小にアラス乃千茲に一碑ヲ建テテ其ノ功徳ヲ表彰ス 昭和十年二月 廣島市長 正五位 勳三等 横山金太郎」

写真はいずれも2012年10月13日撮影。