13.早速整爾銅像台座 (南区比治山公園2)

 陸軍墓地から広島市まんが図書館方面へ行くと、忠魂墓碑、殉職警察職員之碑、殉職消防職員の碑とあるが(比治山スカイウォークを登った付近)、そばの階段下手の道路右手に銅像の撤去された早速整爾銅像台座がある。説明板は最近付けられたようだ、2006年秋に行った時には無かった。さらに進むと左手の小高い丘の上の上にやはり銅像の撤去された「加藤友三郎台座」がある。

写真はいずれも2007年5月14日撮影

 
   
    (説明板)
早速整爾銅像台座
説明
 生前の功績と高潔な人格を偲び、昭和4年(1929年)当地に銅像が建てられたが、戦時の資源供出で軍に回収され、現在は台座のみが残る。台石下部に
は早速整爾の功績と人柄を称えた当時の総理大臣濱口雄幸筆による銘盤があった。

早速整爾(はやみせいじ)1868.10.2〜1926.9.13
 明治元年(1868年)、沼田郡新荘村(現西区三篠町)に生まれる。
 旧姓、中山。
 明治20年(1887年)東京専門学校政治経済英学科(現早稲田大学)卒業。明治22年(1889年)芸備日日新聞社主の早速家の養子となる。明治29年(1896年)県会議員、明治35年(1902年)衆議院議員、明治43年(1910年)広島市議会議長を経て、大正5年(1916年)憲政会の結成に参加。財政通、経済通として頭角を現す。
 大正14年(1925年)、第二次加藤高明内閣で農林大臣、昭和元年(1926年)、第一次若槻禮次郎内閣で大蔵大臣となる。
同年病で急逝。
 南区比治山町の法正寺に墓がある。

左手に、昭和4年(1929年)建立当時の銅像 の写真がある。