19.日本製鋼所広島製作所(南区堀越三丁目・安芸区船越南一丁目)

 「国際平和記念都市広島」市内に、れっきとした「軍事工場」があるのは余り知られていません。それも国内唯一の大砲工場「特機工場」があることは。日露戦争後の1913年から、ここで本格的な兵器製造がはじまり、戦後一時廃止されましたが、1950年の朝鮮戦争でアメリカの要請により兵器製造が再開され、1953年から「武器等製造法」の認可を受け、本格的に武器の製造が行われています。製造されているのは155ミリ榴弾砲等大砲で、今や防衛庁から注文を受け、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊に納入されています。日出台、日本原等いや北富士や全国の自衛隊の演習場に、日米共同訓練に使用されている「中口径以上の大砲・砲弾」は、日本で唯一ここで研究され、製造されているとのことです。今も新兵器の開発が続けられていますし、社のパンフレットにも「兵器製造」についてちゃんと書かれたいるそうですが、一見「プラスチック専門製造会社」のように見えますし、「機密事項にあたる」ということで防衛庁の許可なしでは内部の様子を見ることは出来ません。社屋の5階で80人もの「専門家」が日夜、「社の頭脳」として「誇りを持って」新兵器の研究にいそしんでいるとのことです。製造しているのは西の堀越三丁目側だそうです。朝日新聞広島地方版連載「平和都市のかげで」シリーズの一部、1998年6月3日から5日づけに詳しく載っています。
   
   

なお、1949年のここの700人解雇をきっかけとした労働争議は今も語り草となっており、原爆詩人峠三吉も「刻々とかずを増して工場をかこむ 組合旗のゆらぎの中に うたとなるわれらの怒り。唄となるわれらのなみだ。」といった詩を書き上げています。

1922年にも職工169人解雇をきっかけにした大争議があったことが記録されています。戦前もこのころ、金輪島やあちこちで労働争議・小作争議が起きています。(大正デモクラシー?)