5.解放無名戦士の碑(中区舟入町・西平和大通り緑地帯) 

平和公園から百メートル道路の中国新聞側の緑地帯をさらに西に行き、電車の線を渡るとこの碑がある。少々長くなるが、戦前の部落解放運動の歴史を新修広島市史の記述に基づき紹介する。
  部落の解放をめざして京都市で水平社が創立される1922年以前に、すでに広島市では、1907年に差別されている町民たちの生活相談所として福島町に一致協会がつくられ、1914年には福島町青年会も結成され、更に1917年には町内改善を目標として広島共鳴会が創設される等福島町を中心に相当活発な部落解放の動きがみられていたが、水平社が結成されてからは、1923年7月30日に市内十日市町の新市座で広島県水平社大会を開催し、広島県水平社を結成し、全国水平運動の一環として活発な活動を行うこととなった。
 広島県水平社は、つぎつぎに差別事件を取り上げて糾弾していったが、これに対しては、1924年9月に、委員長をはじめ三名の役員が、差別言辞を用いた女性とその実兄を水平社県本部(福島町)によんで事情を聞きただし、双方話し合いの結果県本部が発刊を企画していた機関紙「荊冠新聞」に謝罪広告をのせる約束をしたことを理由に、不法監禁・脅迫・営業妨害などの理由で拘引され、未決のまま即日刑務所に送られるという事件が生ずる等、当局の激しい取締りがあり、幹部の拘引があいつぐありさまであった。
 その中で全国水平社青年同盟広島市支部の結成があり、1927年には第6回全国水平社大会が広島市の寿座で開催されて、広島市の水平社は活発な運動を続けた。このようにして発展していった水平社運動が民衆の日常的な要求をとらえて立ちあがったのが、1932年に始められた大田川改修工事による立ちのき者の転居問題であった。このとき水平社広島県本部は、立ちのき反対期成同盟をつくって立ちのき先としての公営住宅の建設を強く要望し、ついに公営住宅200戸の建設を実現した。
 このように発展してきた水平運動も、戦時体制に入ってから、労農運動が弾圧・制限をうけるようになってからは、低調にならざるをえなかった。かくて1940年大政翼賛運動がおこると、水平運動の中からもこれに同調する者がでて、同年には大和報国会が生まれ、全国水平社は解散するにいたる。広島では1941年共鳴会が解散し、翌年にはかっての水平社の幹部を中心として大和報国会広島県支部が結成される。

次に碑文を見てみよう。表に「凍てつく大地にあなたは種子となった」と刻まれている。裏には「この碑は解放運動のなかばで倒れた先輩諸兄姉を、とこしえに記念し、たたえるためのものです。この人びとの輝ける遺業をうけつぎ不屈の闘いを顕彰することは、日本の平和と独立、民主主義と人権を守る闘いを励まし、長く解放の礎えとなるであろうという日本国民救援会広島県本部の呼びかけにこたえ、広島県民各階層の絶大な賛同のもとに設置されたものであります。建設資金は、日本社会党広島県連合会、日本共産党広島県委員会、広島県労働組合会議、民主団体、県内外の労働者、農民、労働組合、県民有志の協力と募金によってなされ、3月18日パリ・コミューンの記念日に着工し、第34回統一メーデーの日に完成したものであります。1963年5月1日解放無名戦士の碑建設実行委員会」とある。

 
写真は2005年5月7日撮影