7−2.松山に移っている「おこりじぞう」のモデル


(写真上、中は龍仙院に安置されている、元は広島にあった六体のお地蔵さん。中央の長身のものは、祭壇用にあとから松山で造ったもの。説明板に七体とありますが、あとの一体は、この右隣にあるレリーフ地蔵さんとのことで、一番下に紹介します。下は住職と訪問した沼田鈴子さん等)

わらった顔をして、町のよこちょうにたっていたおじぞうさんは、八月六日原子爆弾をうけ、爆風でふきとばされた。

水をもとめ、にげのびてきたひとりの女の子の目には、そのおじぞうさんが、おかあさんにみえた。

やがて、おじぞうさんは、目をぐっとにらみ、口をぎゅっとむすび、仁王の顔になった。目からあふれた涙が女の子の口もとにながれた……。(「金の星社、 絵本 おこりじぞう、山口勇子原作、沼田曜一語り、四国五郎絵」の扉文)

この絵本と原作、教科書などにも取上げられているようで、「いまも広島の町のあるよこちょうに、おこりじぞうはおこった顔で、じっと立っています」とあるためか、「ヒロシマ案内」を長くしていると、良く受ける質問です。筆者は、かなり市内の被爆遺跡を寺巡りも含めてしていますが、「よこちょうにたっている「表情豊かな被爆地蔵」にピッタリと合うものにはお目にかかっていませんでした。

そのため西蓮寺の被爆地蔵を教えたり、他の被爆、ないし慰霊碑的地蔵を知ってる限り取り上げてきました。

つい最近、いつも人を案内して何度も行っている「淨国寺」を、その目で見直してみると「表情豊かな被爆地蔵」が六体あるのに気が付きました。

そのことを「アオギリの語り部・沼田鈴子」さんに話したところ、「モデルとなった地蔵さんは、今は松山に行っている。1991年ぐらいに訪れたことがある」と聞き、色々聞き取り調査しました。2001年にも知人が調査。上の写真と説明i板文章は2001年のもの。右の写真のものが「おこり地蔵」ということになります。(約25センチメートルの高さ。)

原作の元の話は、「女の子」が実際は年とった主婦だったぐらいで、実話に近いそうです。場所は千田町の今の日赤付近だった」ということだそうです。

山口さんはその話をヒントに「おこりじぞう」を書かれたということで、私どもが当初思っていた「全くの創作」ではないことが判明しました。

が数年後、娘さんが松山に嫁いで行った時に、お母さんとともに、祭っていた数体のお地蔵さんも一緒に松山に連れて行き、「龍仙院」というお寺に安置して祭ったということです。

原作者の山口さんも、この地蔵さんが無くなっているのに気づき、放っていたら「おこりじぞう」の話、全くの作り話になってしまう、と危機感を抱かれ、探し回られて、ようやくこのことを突き止められたそうです。

「龍仙院」では、何回か節目の年に広島に地蔵さんを里帰りさせたりされ、当時の新聞にも「おこりじぞう、里帰り」、ととりあげられたそうですし、下の看板のとおり毎年祭っているそうです。

説明板(龍仙院)

「広島で原爆の被害にあい、焼け跡で粗末になっていたお地蔵さんを住職の義母(西原ミサオ)が全部で七体自宅(広島市千田町)へ持ち帰り。玄関先にまつっていました。「おこり地蔵」はその中の一体です。義母は「首なしではかわいそうじゃ」と言って、新しく頭をつけてもらいましたがそれが怒っているように見えたところから「おこり地蔵」と呼ぶようになりました。昭和45年、当院へ身を寄せた際、他のお地蔵さんと一緒におこり地蔵を運び安置しました。

上段右端がおこりじぞう

行事

毎年八月六日 おこりじぞう供養際

毎月第一日曜日 千灯供養

龍仙院」