3.本川学区原爆死没者慰霊之碑 (中区本川町三丁目2・空鞘橋西詰め)

  ここ本川一帯は爆心に近く、家屋はほとんど全壊・全焼見る影も無かった。鍛冶屋町は爆心から三百メートル、空鞘町は九百メートル、爆心からの道のりはわずかである。死屍累々、生き残った人もまた、火に追われ火を逃れ水を求めて倒れた。地をうずめた数千の遺体は校庭に集められ焼却、骨はこの河岸に埋葬された。当時、防空壕があったという。 後に遺骨は平和公園の供養塔に移され合祀された。しかし人々は最初の埋葬の聖地に小さな御堂を建て記念としたが、十三回忌に慰霊の碑を建て、亡き人を偲ぶよすがにされたと聞く。1965年8月建立。ヒロシマの悲しみをのせて、川は今日も流れていく。
「本川学区原爆慰霊碑(本川町三丁目5番本川河畔)
この地はかって空鞘橋防空壕があり、昭和二〇年八月六日原爆投下された際、本川地区一帯の被爆死亡者数千の遺体を本川小学校に圧m荼毘に付し その遺骨を埋葬した場所であります。その後 遺骨は平和公園内の供養等塔に移されましたが 永遠にこの聖地を記念誌、その霊を慰めるために地区有志一同相寄り昭和三十二年八月六日この慰霊碑を建立したのであります。
平成六年四月
本川地区町民有志
本川町二丁目三丁目町内会
十日市町二丁目一区二区三区町内会」

左の写真は2014年3月16日
   

「本川地区原爆慰霊碑」

「碑に寄せて

昭和二十年(一九四五年)八月六日午前八時一五分相生橋上空5百数十米にて一発の原子爆弾は、瞬時に全市を壊滅させた。爆心に最も近いこの学校では児童教職員四百十余人全員爆死し、数千人もの地区民も熱線爆風の直撃を受け惨憺たる有様であった。廃墟となったこの学校は避難救護所に当てられたが、焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当てする術も無く、校庭はたちまち死骸の山となり、已むなくこの地で荼毘に付された。当時を偲べば追悼の念を禁じえない。この事実を後世に伝え核兵器の廃絶と永久の平和を希って、地区と学校が一体となりこの平和資料館の傍らに慰霊の碑を建立する。

平成七年一一月三日

本川地区原爆慰霊碑建立委員会」

右の写真は2002年6月8日撮影