29.三菱造船職員慰霊碑(三菱広島・元徴用工、在外被爆者問題)  (西区観音新町四丁目8−2・三菱会館裏)

   

2010年4月、三菱重工(株)広島製作所敷地内に移設されました。以降、私たちのような部外者の写真撮影は不可能となったようです。以前は、広島空港へ行く少し手前、三菱重工轄L島製作所正門の少し前の右手に三菱会館がすぐ見え、その裏の庭に大きく立っていました。今、そこは駐車場になっています。

 三菱重工業広島造船関係者43人を合祀しているといいます。1960年建立。

(左の写真は2007年2月22日撮影)。


 ここは爆心から遠く、被害はありましたが、工場での死亡者は少なく、当日、雑魚場町に疎開作業に出ていた人が死んだということです。
 三菱重工は、1943年軍の強い要請もあって、ここ観音地区に機械部門、江波地区に造船部門の工場を、海面埋め立てと共に旧ピッチで建設していきました。敗戦までに七艘の軍船を竣工させています。軍需工場として有名で、女子挺身隊員、動員学徒も数多くここで働いていました。

  また、1910年、日本に併合され、土地や生きる糧を奪われ日本に来た朝鮮人、人狩り同様にして強制的に日本に連れて来られた朝鮮人もまた千人以上働いていました。終戦後、帰国の途についた、ここで徴用されていた朝鮮人246人は、船に乗ったのは確認されていますが、その後行方不明となっています。恐らく遭難したのではないかと言われています。安全に母国に送り届けるのが国際法の義務ではなかったのではないでしょうか。しかし、これらの人々の事については、この碑も三菱も語ってくれません。
 
   
 

右の写真は、朝鮮人の存在を語らない三菱会館の裏にある巨大な原爆慰霊碑の前で、幼少時被爆者から「朝鮮人だとわかると仕事の大半が断られる」と「差別」の現実を聞いているところです。
右の写真は1994年1月9日撮影。




広島における朝鮮(韓国)人被爆者の存在と今もって続く根深い「差別」の現実については、韓国人原爆犠牲者慰霊碑 (平和公園).の中で触れています。 

 戦時中に三菱重工広島製作所に強制連行され、被爆した韓国人元徴用工の原告たちは、日本政府と三菱に対して、未払い賃金の返還や強制連行の損害賠償、韓国の被爆者への援護法の適用を求めて、裁判を闘ってきています。1999年3月25日の三菱広島・元徴用工被爆者へのへの戦後補償を求める広島地裁の、一切の補償を認めないという、犯罪的第一審の判決もヒロシマの根深い差別の土壌の中で下されたと言えるかもしれません。

しかし40人の原告による三菱徴用工裁判は、ついに2005年1月19日、広島高裁において、在外被爆者を被爆者援護法などの適用外としてきたことなどを「不合理な差別で違法であり、在韓被爆者は被差別感や不満感を抱くことになった」として精神的損害を認め、国に慰謝料の支払いを命じるという画期的判決を獲得しました。(2005年1月20日中国新聞)。この間大きな論点になってきた一つに、「一旦被爆者手帳を取得した被爆者が日本から出国し、居住地を国外に移したことによって、援護法の適用を受けられないのは違法」ということがやっと定着しつつあります。す。詳しくは「三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会」 のページへ。


 
 
   
 

2002年12月に郭貴勲裁判において、大阪高裁で勝利判決が勝ち取られ、政府は控訴を断念、勝訴が確定ました。2001年12月にも李康寧裁判で、長崎地裁は同様の判決をしています。「被爆者健康手帳は海外に出ても失効しない」ことを政府が確認したのは大きな前進です。

しかし「被爆者はどこにいても被爆者」という当たり前の精神を政府が受け入れたわけではなく、来日しての手帳取得が前提、社会保障的にとらえるという「国の本質的な姿勢」は変わっていません。これからも同趣旨の訴訟を継続する必要がありますし、現実の在外被爆者救援にはまだまだ多くの難関が立ちふさがっています。政府はあくまで「国家保証責任」を拒否しており、「従軍慰安婦」や「強制連行問題」に波及させることには、まだまだ厳しい道があります。
左の写真は2001年12月1日の原爆ドーム前での座り込み)