36.旭山神社   (西区己斐西町12−10)

 爆心地より北西約2.8キロ。旭山神社の創建は大変古く、不明である。古書に御祭神、神宮皇后が朝鮮へ向かう途中当地に立ち寄り、当時の県主が皇后に大きな鯉を献上したところから、この地が「こい」と名づけられたという。その後県主の願いにより社殿が建立されたと伝えられ、歴史的に古いものであることが想像できる。1555年、毛利元就が陶晴賢と厳島で合戦をするとき、郡山より出て厳島に向かう途中、当社に必勝祈願の参拝をし、夜が明けて東の空に朝日が昇り、これを見た元就は大変喜び、社名を旭山八幡宮と名付けた。以来183段に登る山を「旭山」と呼ぶようになった。
 ここの被爆遺跡、被爆建物、被爆の惨状を紹介しよう。

 (1)橋 参道 門柱 石灯籠  
   

 八幡川にかかる石橋を渡れば、まず門柱が目につく。左には昭和十二年二月吉日、呉市中通、渡部常蔵、右には陸軍中将正四位勲一等功五級大木桂謹書とある。中の石灯籠には明治二十八年田中登一郎、狛犬には明治四年三月の日付が読み取れる。さらに中の門柱には明治四十年三月吉日とある。
 原爆におそわれた広島市民は、街の周辺目がけて悲惨な姿で逃げまどった。山火事が発生したため、旭山に登る人はなく、奥の己斐国民学校方面に多くが逃れていったが、このあたりでも傷ついた多くの人が、呻き、水を求め、肉親の名を呼びながら息を引き取っていった。

写真は2003年6月25日撮影

 

 

 

 

 

   
 写真は2012年5月24日撮影
 (2)拝殿(木造入母屋造り、銅板葺)       
 
   毛利元就が必勝祈願したという当時の拝殿は今の絵馬堂で、天保14年(1843年)に建立され、1937年神社改修工事のとき、本殿、拝殿を新設し、旧拝殿は移設され絵馬堂となった。
 原爆により、拝殿、本殿は崩壊したが、焼失をまぬがれ、1948年に復元され現在に至っている。写真は拝殿で、その裏に本殿がある。

写真は2003年6月25日撮影
 (3)絵馬堂(木造入母屋造り、瓦葺)   
  このお堂は、もとの拝殿を移したもので、ここで一番古い歴史をもっている建物と言える。上に記したように毛利元就の時代からあったというから、相当古いものと推定されるが、詳細は不明である。
 原爆により屋根は吹き飛ばされ、内部は荒廃し、幾分傾いたが、地元消防団の活躍と激しく降ってきた黒い雨によって火災、焼失は免れた。1948年に修復され現在に至る。なお、この中の絵馬は1870年奉納されたものである。

写真は2012年5月24日撮影
 
 (4)クスノキ     
    旭山神社にも被爆樹がある。全焼地域ではないから、まだ沢山この山には被爆樹はあると思われる。このクスノキの大木は、そばに御成婚記念樹、正三位勲一等男爵加藤高明書、大正4年(1915年)と記された石碑がある。その時植えられたものであることが判る。
 思いもがけず、被爆の惨状を見てきた樹である。
 もう一つ、このそばにある被爆遺跡を文章で紹介しておく。明治三十六年と記された橋本調二翁顕徳碑という物もある。

写真は2003年6月25日撮影
 5)忠魂碑