44.浄教寺 山門・本堂・経堂(西区草津本町1−22)

 山門  
 

ここは爆心から5キロぐらい離れているが、このような調査を始めた1992年頃は、まだ被爆建物のリストも十分では無く、ここの建物については、被爆建物とは確認できず、一番下の墓石のみを今まで取り上げていた。

このたび(2012年10月16日)広島市作成の被爆建物リストにもとづき再訪した。それによるとここは爆心地から4,980m、本堂、山門、南門、経堂が被爆建物とある。南門(唐門)は新しいものに建て替えられていたが、山門、本堂、経堂は改修されながら現在も残っている。

写真は2012年10月16日撮影
   歴史の散歩道立て札
 またこのあたりこのような歴史ある建物が多くあり「歴史の散歩道」という立て看板が古くからある建物、神社、遺跡などに立てられ草津地区の歴史を説明している。

調査もほとんどされていなかった。そばを通りかかった所、無縁の墓が見えたので立ち寄ってみました。無縁墓は原爆とは関係ないといいます。そのかわり、山口家の墓には、ので写真をとりました。


写真は2012年10月16日撮影
 
 本堂  
 写真は2012年10月16日撮影
   経堂
 写真は2012年10月16日撮影  
   
   左の墓には昭和二十年八月六日 二女ケイ子 四才、昭和二十年八月六日 三女アサ子 三才、昭和二十年八月七日二男 嬰児 当才と刻まれている。

写真は2012年10月16日撮影
   
 

右の墓には、昭和二十年八月六日亡 与一 キクヨ ヒデと3名の原爆死が刻まれており、その向こうの住田家の墓には、故海軍機関中尉正七位勲六等 住田壽夫 昭和二十年四月一日台湾海峡に於て阿波丸と運命を共に戦死す 利一長男 三十四才 とある。