43.草津南町国民義勇隊追悼の碑  (西区草津南一丁目6・公園内)

この碑は、原爆が投下されてから35年目に建てられた。どこでもこの種の碑は、占領集結から間もなしに建てられているのに、この町ではそう簡単には建てられなかった。
 8月6日の朝、草津南の町民(157名・国民義勇隊)は、市内小網町で建物疎開作業中被爆死した。この日の動員は、草津浜町に割り当てられていた。それを、潮の都合で南町と交代した。この交代が恨みを買うことになったのである。その年の秋祭、復員した若者たちは「神輿」を担いで南町町内会長宅を襲い、家財や家屋を打ち壊した。責任の追求は出動命令を直接出した町内会長に向けられたが、その後で全町民の動員計画を立てた者には至らなかった。いわば同志討ちをした後味の悪さが今だに残っているのである。又、当日作業場に行かなかった者は、自分の運の良さ、そして死んだ人に対する後ろめたさを世間に秘したい気がして追悼碑建設の提案者になれなかったのであろう。(山口氏康氏記) 写真は2005年5月24日撮影。

   

草津南町国民義勇隊追悼碑 説明板

碑文

昭和二十年八月六日午前八時十五分 広島市上空に投下された一発の原子爆弾により市内は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵と化し 無残に崩壊した瓦礫の焦土の中を蜿々と死の行列が続いた。

この日 軍の至上命令にもとづく広島市長の指令により出動した か弱い女子百名を含む草津南町国民義勇隊はしない小網町附近建物疎開作業任務中被爆し全員傷つき焼けただれ悲惨きわまる苦悶の果て次々と斃れていった。

渡す土も遺族は痛恨のうちに逝った肉親の無念を想いこのむごたらしい戦禍の再び繰り返すことのない平和への祈りをこめて百五十七名の尊い犠牲を永久に伝え残すべく記念の碑を建立し こヽに追悼の意を捧げます

昭和五十六年八月二日 

草津南町国民義勇隊 遺族一同

撰文 遺族代表 小西ノブ子

 

その上に「国民義勇隊出動指令伝達」の文書が証拠のように刻まれています。

右側には「草津南町国民義勇隊戦災死者名」157名の名前を刻んだ碑が建っています。

その裏に「この追悼碑の建立には、資金をはじめ敷地、碑石の確保ならびに運搬など多くの難問があった。大崎勝一、山口氏康両氏の多大な尽力を得て、完成した。 遺族一同」とあります