62.大野町 水害死没者供養塔  (廿日市市大野町宮浜温泉・洗心園)

   

前ページの京都大調査班遭難記念碑を2012年10月16日に再度訪れたら、もっと古い、災害にあわれたその年の内に建てられた古い碑が近くの老人ホーム「洗心園」の庭にあることを知り、10月29日に訪れた。

前日に電話していたからか、園長(理事長)さんらに暖かく迎えてもらい、大野陸軍病院に多くの被爆者がかつぎこまれていたこと、その理療と研究のため京大調査班が宿泊していたこと、枕崎台風で患者・医師・看護婦と京大調査班の多くが犠牲になったこと、そしてここに慰霊碑を建てた経緯らを説明され、資料も頂いた。

写真はいづれも2012年10月29日撮影。

   
 

洗心園玄関左に、供養塔、観音像、四田氏墓が並んで立っている。

表に水害死没者 供養塔 昭和二十年十二月八日建立

左にある説明板(石板)にはこうある。

「日本赤十字病院大野量要所に入院中の広島被爆者実態調査研究に來所中の京都大学真下俊一教授以下十一名と入院中の陸軍将兵並に被爆者同療養所の医師看護婦等百五十六名は昭和二十年九月十七日の大風水害のため死歿されました。この霊を慰め供養のため之を建立するもの也。

昭和四十二年九月十七日

施主 大野町 四田増五郎

         仝 育子」

 
   
 

の左の観音像には倶会一処、昭和四十年十二月建立  四田増五郎 仝育子 と刻まれてある。

石灯篭には「在布哇  四田政吉 同トモヨ」とある。

   
 

左の墓には

「洗心会初代理事長 洗心園創立者 四田増五郎 昭和六十年九月二十三日 九十七才、四田育子 平成元年六月十七日 八十三才 昭和六十一年四月吉日建之 育子」と刻まれている。

   
 

玄関向かって右側にはこの洗心園創始者四田増五郎夫妻の像が立っている。

四田増五郎夫妻の像

四田増五郎翁は明治二十一年五月一日、佐伯郡大野村丸石に生まれた。青年時代より進取の気性と行動力があり更に時代の前進を見る眼があった。又、浄土真宗の熱心な信者でもあった。昭和四十二年当地に観音像を建立、併せて枕崎台風被害者の慰霊碑を移転・併置して聖地とした。

昭和四十五年、念願であった特別養護老人ホーム洗心園を私財を投入して設立した。その時翁は八十二才であった。九十七才の天寿を全うするまで、この地で老人福祉の仕事に情熱を燃やし続けた。育婦人は鹿児島県加世田市の生まれで増五郎おきなを助け八十三才で御念仏の一生を終えた。

   
 

広島方面からだと国道2号線沿いの宮浜温泉入り口に「京大原爆災害調査班記念碑」「旧大野陸軍病院 枕崎犠牲者 一五六名供養塔(洗心園)」「特別養護老人ホーム洗心園」と真新しい標識が立っている。岩国方面からだと過ぎたあとになってしまう。

 この山すそあたり一帯が大野陸軍病院のあったところで、住宅地としての開発は比較的古く、狭い道路が入り組んでいるので、上から両方の碑を見て回るのは困難。一つ見たら入り口に戻って次の方へ行かれるが良い。