61.大野町 京都大調査班遭難記念碑   (廿日市市大野町宮浜温泉・米山広場)

 

写真はいずれも2012年10月16日撮影。

米山広場とある。

右は「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑の由来」とある碑(平成十七年九月=2005年9月)

碑文は下に

   
   
   
   

右下が「京大原爆災害調査班遭難記念碑」(昭和四十五年九月一日=1970年9月1日)

碑文は下に

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

                 

「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑の由来

昭和二十年八月六日広島に原子爆弾が投下され、多くの人々が被爆した。

当時大野村では、この地に隣接して約八百人を収容する大野陸軍病院があり、その中央の病棟に約百人、また国民学校(現大野西小学校)に約千五百人の被爆者が収容されていた。

 八月二十七日中国軍管区司令部から原爆被爆者災害の調査と早急なる対策樹立の為に研究員派遣の要請を受けた京都大学は、直ちに医学部の教授陣を中心とし、理学部物理学者を加えた研究班を組織して来広した。九月三日からこの大野陸軍病院に本拠を置き、診療・研究を開始した。ところが九月一七日この地方を枕崎台風が襲い、同夜十時三十分頃、山津波が起こり、一瞬にして大野陸軍病院の中央部を壊滅させ山陽本線を越えて海中に押し流した。

 このため同病院に入院中の被爆者の殆んど全員と職員合計百五十六人の尊い生命が奪われた。この中には日夜原爆への対策、調査、研究に献身した京大真下俊一教授(内科学)、杉山繁輝教授(病理学)以下研究班員十一人の名まえが碑の中央部にはめ込んである。

 建設にあたっては、京大菊池武彦名誉教授を筆頭に、脇坂行一、木村廉名誉教授をはじめ京大関係者、広島県下の諸団体、広島県、広島市、大野町、原対協、芝蘭会広島支部、その他多数の方々のご支援により建立された。設計は、京大増田友也名誉教授の指導のもとに京大前田忠直教授が担当した。

 この碑の垂直的な力強い造形は、大地から天に向けて舞い上がる人間の復活を象徴しており、京都大学関係者を含め、犠牲者の方々の追悼と恒久平和への祈りを表している。

平成十七年九月      京都大学  大野町」

「京大原爆災害調査班遭難記念碑

昭和二十年九月一七日夜 京都大学原子爆弾災害調査研究班 この地大野陸軍病院において山津波に会い左の十一名職に殉ず

医学部

 教授 山下俊一

 教授 杉山繁輝 

 助教授 大久保忠維

 講師 島本光顕

 講師 西山眞正

 食卓 島谷きよ

 学生 原 祝之

 学生 平田耕造

理学部

 講師 堀 重太郎

 大学院学生 花谷暉一

化学研究所

 助手 村尾 誠

昭和四十五年九月一日

京都大学原爆災害調査班 遭難記念碑建立委員会

京都大学総長 前田敏男 書」