64.宮島平和観音  (廿日市市宮島町北大西・大願寺前)

平和観音[側碑]・

原爆戦争犠牲者慰霊

  祈願世界平和

 原水爆禁止  [上記の「平和観舌→石碑の左側の石碑]・

慰霊対象の原爆犠牲者は少なくとも60名を超える。戦死者との合計は227名。

原水爆禁止宮島協議会・平和観音建立実行委員会
1955年(昭和30年)12月に陶製観音像建立。1994年(平成6年)6日に石造観音像再建・

写真はいづれも2013年11月26日撮影。

   
  1954年(昭和29年)に発足した原水爆禁止宮島協議会が地元の原爆犠牲者慰霊碑建立の要望に応え、宮島の仏教会か寺の再三再四の托鉢と遺族・有志の協力を得て建立した、地元陶芸家の手になる陶製慈母観音像の慰霊碑があった。台座には上記の碑文とともに「原爆許すまじ」の歌詞が刻みこまれていた。
 建立以来
40年近くが経過したこの陶製観音像は、台風時の飛び石でひび割れや破損が目立つようになってきた。このため1988(昭和63年)に宮島町社会福祉協議会や寺社関係者が平和観音建立実行委員会を組織して再建計画をスタートさせ、広く町民に浄財を募った。こうして1994年に開眼供養されたのが、台座を含めての高さ2.6mの石造座像の「平和観昔」とその背後 6体の石造地蔵菩薩である。なお台座後面には「平和観音像建立寄進者芳名」として、399の個人と法人の名が記されている。この平和観舌の左手の自然石の碑には、以前の陶製平和観音の台座にあった「原爆戦争犠牲者慰霊・祈願世界平和,原水爆禁止」の碑文を刻んだ陶板がはめこまれている。

 慰霊対象としては、陶製平和観音像建立の準備段階では原爆犠牲者のみとしていたが、原爆以外の戦死者(日清戦争〜太平洋戦争)も含めてほしいとの遺族からの要請を入れて、「原爆戦争犠牲者慰霊」の碑となった。再建された石造平和観音の慰霊碑にもこれは引き継がれているが、陶製観音像建立時に、原爆犠牲者と戦死者の明瞭な区分が行なわれなかったこともあって、社会福祉協議会や遺族会の名簿から正確に原爆犠牲者を数え出すことは困難である。しかし被爆した日から10日までの日間の死没者60名は原爆死と思われる。多くは12〜15歳である。 
 また社会福祉協議会によれば、原爆・戦没者227
名中59名は動員学徒であったとのことである.このようなことから、宮島町の原爆死没者は動員学徒を主体に少なくとも60名を超えるといえる。今後は毎年日に、平和観音の前で慰霊行事が開催される。