65.大竹市原爆死没者慰霊碑「叫魂」、被爆40周年記念碑 (大竹市立戸一丁目6−1・大竹市総合市民会館前)

 

叫魂[台座正面].

叫魂の除幕式では,被爆時から叫魂建立時までに判明した520の原爆死没者名簿が納められた。その後毎年、その年間の死没者を追加記載し、1988日には890名となっている。

大竹市原爆被爆者協議会、1983年(昭和58年)11日建立。

写真はいづれも2013年11月21日撮影。

   
 1945年(昭和20年)日には,大竹から広島に派遣された989名の国民義勇隊員および多数の動員学徒が被爆し,とくに玖波と小方の両地区からの義勇隊員はほとんどが死亡したと記録されている。また動員学徒も日以内に120名が息を引き取り,さらに傷ついた広島市民500名あまりが大竹まで逃げのびたものの、多くはここで息絶え、校庭などの空き地で荼毘にふされたといわれている。
 1971
年(昭和46年)に大竹市原爆被爆者協議会が結成されたのを機に、慰霊碑の建立が提案されたが、10年後の1981年秋になってようやく具体化し、翌1982月に最終的に議決された。
 当初は被爆40周年記念事業として浄財を募ったが、予想よリ年も早く願いが実現した。この慰霊碑は「叫魂」と名付けられたブロンズの父子像である。叫魂と浮き彫りされた台座の上で、父は満面に怒りの形相をたたえて天空をにらみ、子はその足もとにすがって空を見上げている。大竹の心が広島に通ずるようにと、この父子像は広島の方にむいている。制作者は大竹市民で広島県美展審査員の彫刻家・三上良平氏である。

1983年(昭和58年)11日の除幕式にひきつづいて、第回の大竹市原爆死没者追悼・平和祈念式が開催された。その際、大竹市原爆被爆者協議会会長・三上登氏によって高らかに「平和宣言」が発せられた。この平和宣言は「叫魂」の碑文に相当するものと思われるのでここに収録した。

 

 

 

 

 

   
  平和宣言

 昭和20年8日、私達は生きとし生きるものすべてを滅ぼすのが,人間であることを知りました。深い悲しみと苦しみの中で、人類の平和を求めつづけて38年、私達は本日ここに、第1回目の「大竹のヒロシマの日」を迎え、人間の魂の証ともいうべき原爆死没者慰霊碑を建立することができました。

 父よ 母よ,いとしきわが子よ,はらからよ!

 私達はこの碑を「叫魂」と名付けました。そして私達は、今は亡きあなたがたの魂の叫びをも、次代を担う子供たちに受け継ぐことを、この碑の前で厳粛な気持ちでお約束いたします。

安らかにお眠りください。

 あの日から、人類は生か、死か、繁栄か、滅亡かの岐路を歩みつづけています。宇宙の子供である地球も、破滅の淵に立たされています。青い空、青い海、緑の山、緑の河・‥‥‥‥・‥

 この美しい地球から、人間の所業であるすべての戦争をなくし、核兵器を廃絶させるのは、私達の責務です。このことはまた、地球を古里にする全世界の人々の、共通の願いであると信じます。

 私達は、本日ここに、初めての「大竹のヒロシマの日」を迎えました。原爆の犠牲でなくなられた方々に心から追悼の念を表明すると共に、かけがえのない命を尊ぶ魂の叫びを、全世界に広げることを内外に宣言します。
 昭和58
11

           大竹市原爆被爆者協議会会長 三上登.

   
 

 1985年(昭和60年)3月に、「叫魂」の左側に「被爆40年記念碑」が建立されている。