6.中国軍管区軍人軍属 動員学徒慰霊碑        (中区基町 21・護国神社入り口)
   
   

いつも、あなたたちを憶う 8月6日を思う あなたたちの尊い犠牲を 無にすることなく とわに世界の平和に結びつけたい どうぞお心安らかに

 当初2184人の死者と2860人の負傷者と記録された軍の原爆被害は、1万5千人以上の死者を出していると推定されています。贖罪を見据えた鎮魂とは何か!

なお、軍の中枢部に動員学徒とは?と思われるかもしれませんが、ここに動員されたのは比治山高女の女学生、比治山高女は済美学校が男子生徒ばかりだったので、高級軍人や階層の女子生徒を受け入れるために1939年昭和高等女学校として発足した学校。従って軍の中枢部の仕事の手伝いをさせられていたのもうなずけます。

2007年7月、「中国軍管区司令部原爆慰霊碑について」という説明板が広島師友会により設置されています。下にその文章を紹介します。

左の写真は2013年4月17日撮影。
   
 

比治山高女の被災ですが、学校は、 爆心から約3キロの南区の西霞町。あの日建物疎開に行く事になっていた1、2年生は、出発が遅れ校内にいたため助かりました。学徒動員でここに来ていた教員2人と3年生64人が犠牲を出したぐらいで、学校のうちで最も被害は少なかったとも言えるでしょう。た。蛇足ですが、ここの慰霊碑が市内の数ある原爆の碑の中で、日本庭園と調和して最も美しく大切に手入れされているのではないかと思われるなど、見た者、皆感心してしまうほどです。(右写真でその一端はわかりますかな?)

碑文「ペンを預け ただひとすじに 捧げたる 若きみ魂を 永遠に偲ばむ

 
   
                  
   
 

中国軍管区司令部原爆慰霊碑について

明治6年此処広島城内に広島第五鎮台が設置され、その後第五師団司令部となりました。爾来その隷下舞台は、萩の乱、西南の役、日清戦争、日露戦争、北清事変、シベリア出兵、など幾多の戦役に際し、常に我が国軍の一翼として活動しました。

一連の日華事変、太平洋戦争において第五師団出兵後の広島では、留守第五師団司令部、広島師団司令部、広島師管区司令部、中国軍管区司令部と名称、組織、使命はその都度変化しながらも多くの師団、旅団を編成して送り出し、補充を行ってきましたが、昭和20年8月6日午前8時15分 原子爆弾の一閃により壊滅し、事実上の終焉を迎えました。被爆当時中国軍管区司令部に勤務しておりました軍人軍属の死没者数につきましては諸説があり定かではありませんが、この地で被爆した軍人軍属並びに学徒動員のさなかにこの地で被爆した旧比治山高等女学校関係者を中心に結成した「広島師友会」は、以来、盟友の慰霊碑の建設と慰霊式の開催を中心に活動してまいりました。

 毎年8月6日午前8時より、この地におきまして比治山女子中学高等学校の主催により原爆死没者の慰霊と共に二度と戦争のない平和な社会の実現を目指す誓いの場として追悼式が執り行われております。

連絡先 比治山女子中学高等学校     広島市南区西霞町5−16

平成19年7月8日  
広島師友会


下に  中国軍管区司令部配置図(昭和20年)  あり