7.護国神社 献納碑 「英霊に捧ぐ」碑  「聖諭信仰」碑石 母の像(靖国)         (中区基町21) 
   
    護国神社は靖国神社と同系列の神社です。(靖国神社は1879年、東京招魂社を抜本的に改革して出来たもので、明治維新前からの国事殉難者から始まって、太平洋戦争までの「天皇のために死んだ」戦死者・戦犯処刑者を祀るものです。一部の政府筋や、遺族会の中からA級戦犯分祀が検討されたりしていますが、「宗教への政治の介入」不可を理由に進んでいません。また、無宗教の追悼施設建設の提案もなされていますが、中々進みません。

2004年1月1日、小泉元首相が靖国神社参拝。当然ながら、中国、韓国等アジアの国々の猛烈な批判を浴び、2005年の初詣は明治神宮でしたが、10月17日秋期例大祭初日に、2006年は8月15日の終戦記念日に、と参拝を強行してきました。以降、日韓、日中関係は急速に悪化したため、安倍元首相以降は、刺激しないようにつとめ、当面しのいでいるのは、皆さんご存知のとおりです。
   
 

 広島城入口にある護国神社は、日中戦争が泥沼化する中で、西練兵場の一角(現在の青少年センターの所)に移され、1939年護国神社となりました。対英米戦必勝広島県民大会が太平洋戦争突入時には、ここで開催されています。同時期、全国各地に護国神社が設置されています。皆さんの出身地にもあるでしょう。(広島市郊外でも、可部・五日市にもさびれたのがあります。)初宮、厄除、交通安全諸祈願とともにここに何があるか見て貰いたいと思います。

 昭和48年献納となっている鳥居の元望部隊、元開部隊生存者一同となっている碑文(下に)には「旧第五師団管下の将兵を主軸としている本部隊は揚子江、湘江を中心とし江北、湘南等の各地に転戦し赫々たる戦果をあげたのである・・・・・・その功績をたたえ・・・・・・」とあります。

 献        納

  中支派遣獨立混成第十二旅團望部隊は昭和十四年四月を以て江蘇省?州に於て編成せられ同十八年六月楊州に於て第六十四師団開部隊に擴充改変されたが旧第五師團管下の将兵を主軸としている本部隊は昭和二十年八月終戰を迎えるまで揚子江湘江を中心として江北湖南等の各地に轉戦し赫々たる戦果を挙げたのである但この間将兵合わせて三千九百七十四柱の戦歿者を出したことは洵に哀惜に堪えない次第である。ここに部隊生存者一同は遺族と相謀り戰後の物故者をも併せてその功績を称え華表一基を建立して永くその偉功を顕彰し以て後世に傳えるものである

昭和四十八年一月吉日

   元望部隊

    開部隊 生存者一同

                              文学博士 池田末利撰                              桂團   井上正雄書

アジア大会の時には、アジアの人にはとても読ませられないので、この碑文に布がかけられていたといいます。

   
 また、右側には「報恩の碑」があります。台石に「英霊にささぐ」と刻んであります。幼子を抱いて立つ男女の像、裏側に「父慕い 母の育み幾春秋 深き恵みに、われはこたえんと記してあります。戦死した父を忍び、苦難の母を想い、1978年、遺族会青年部が建てたものといいます。恩に応えるとは、どう生きることでしょういか。靖国神社にも同じ趣旨の碑母の像がありますが、靖国神社よりこちらの方が碑文や銅像が勇ましい雰囲気です。  
 

 

靖国神社 母の像遊就館左)碑文


強くきびしく やさしかった母 おかげで私がある

お母さんありがとう

私たちのかなしみが くりかえされることのないように

昭和49年秋 日本遺族会青年部

昭和49年秋 日本遺族会青年部建立

裏 銅像製作 宮本隆 台座施工 光田石材店

   
                             
   「ノモンハン事変十五周年記念靖国神社神木苗木」という碑(左)、元槍第二三四三部隊、元肇第七三五五部隊、元至純第二三八五部隊による「鎮魂植樹」の碑などあります。

993年8月15日の細川元首相の侵略戦争謝罪発言に対して、「では自分の親は犬死にだったのか!」と遺族会を中心に抗議の声が挙がったのを覚えておられるでしょうか。この「侵略戦争謝罪発言」に対して、すぐに抗議の署名が拝壇においてありました。他の神社に比べ、非常に「政治的な」神社です。

 

 また、ずらりと並んだ玉垣には、マツダ、三菱、広島銀行、広島カープ等広島の大手企業の名があります。地元マスコミの名も。信教の自由の中の事として、この中にある物が触れられない訳、出版されない訳が判るような気がします。(1997年、初めてある放送局から紹介されました)。 ちなみに、広島では、71年という歴史の最も浅い神社であるにもかかわらず、護国神社が最も格式が高い神社とされ、昨年(2009年)の初詣は、護国神社60万8500人(2009年1月6日中国新聞=県警発表)で県下一(靖国神社系列の神社で50万人以上の初詣があるのはここだけー日本一の明治神宮は319万人、靖国神社は25万人)と発表されています。ちなみに出雲大社は59万人で毎年中国地方1位を争っています。宮島は12万人です。広島都市圏は130万人程度ですから、この数字はなにを意味しているのでしょうか。2010年1月20日にも、ここに広島東洋カープが必勝祈願する様子 が大きく報道(2010年1月20日中国新聞)されていました。 また、2008年2月11日、建国記念日の奉祝式典もここで行われています。

 それを総括するように、正面には御即位五〇周年記念の馬の碑、平成二年の天皇陛下御即位御大典記念の門柱があります。

 これらを、侵略された中国や東南アジアの人達が見たらどう思うでしょうか?

   
 「聖諭信仰」碑石

 そして向かって左奥には、聖諭(軍人勅喩)信仰碑石が、何故か「許可なく立ち入り禁止」の看板の奥に鎮座していましたが、2009年、社務所改築に伴い撤去されています。

「許可無く立ち入り禁止」の看板が掲げられる前に入ってみました。(2009年、社務所改築に伴い撤去されています。) 

 碑石裏面  「勅喩拝受五十周年に当たり益々職分に励み皇軍の精華を顕揚して皇運を無窮に扶翼し奉らんことを期し梨本宮守正主殿下の御親筆を厚くしここに比碑を建つ、昭和七年四月二十四日、歩兵第十一連隊将兵一同」

 説明碑「歩兵第十一聨隊の兵営に在りしこの碑は、原爆により倒壊したが礎石は広島市高須二丁目荒木羊三氏のご配慮により現存するを得た。当時将兵信仰の碑として遺すべくこの地に移したものである。」

             昭和52年4月24日 歩十一会

 
   
 因みに「軍人勅喩」とは1882年(明治十五年)公布……(以下、山川出版社高校参考書より)

  夫兵馬の大権は朕か統ふる所なれハ其司々をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親之 を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす、子々孫々に至るまで篤く斯旨を伝え、天子は 文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体中区乱古都を望むなり、朕は 汝等軍人の大元帥なるそ、されは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ、其 親は特に深るへき、朕か国家を保護して上天の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得さるも、汝等軍人か其職を尽すと尽ささるとに由るそかし。

 一 軍人ハ忠節を尽くすを本分とすへし。

 一 軍人ハ礼儀を正きすへし。

 一 軍人ハ武勇を尚ふへし。

 一 軍人ハ信義を重んすへし。

 一 軍人ハ質素を旨とすへし。

 口語訳「陸海軍を編成・統帥する権能は私(明治天皇)が統括するところなので、その    各部署は臣下にまかせてはいるが、その大綱は私自身がこれを指揮し、あえて臣下に委任するものではない。子々孫々に至るまでこの趣旨を伝え、天皇は文武の    大権を掌握するものなので、再び中世以降のような失態のないことを望むのである。私はお前達軍人の大元帥であるぞ。だから私はお前達を手足と頼み、お前達は私を頭首と仰いで、その親密さは特に深いものである。私が国家を保護して天の恵みに答え、天照大神と歴代天皇の恩にお報いすることができるのもできないのも、お前達軍人がその職分を全うするかしないかにかかっているのである。」