8.大本営跡                  (中区基町21)
   
   今は公園になっている広島城の天守閣をのぞむ本丸広場には、旧大本営の礎石がちらばり、そのそばに「明治二十七八年戦役広島大本営」の石碑(昭和十年・文部省建設とかろうじて読める。右の碑文は塗りつぶしてある)があります。1995年、新しく英文を添えた説明板が立てられました。

(懸案の宿題だった「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」の右側の塗りつぶされた文字が判りました。朝日新聞広島地方版、1998年2月12日付け「平和都市のかげで」の特集記事の中で「史蹟名勝天然記念物保存法に依り 大正十五年十月内務大臣指定」とあったそうです。たいして他愛のない文字ですが、占領政策の中で、慌てふためいて「軍都広島」の跡を消して回った様子が伺えます。おさわがせでした。)

左の写真は2013年5月17日撮影。

 


   
 

1893年、日清戦争に備えて「戦時大本営条例」が制定されました。戦時あるいは事変の際の最高統帥機関として大本営は制定されたのです。1894年6月5日、これにより大本営が東京の参謀本部内に設置され、8月1日には清国への宣戦布告とともに宮中に移されました。さらに9月15日、明治天皇の「広島行幸」とともに、広島城内の第五師団指令部に移されることになりました。ちょうど6月に山陽鉄道が広島まで開通したばかり、その5年前には宇品の築港が完成していたため広島が絶好の派兵拠点となったためです。天皇及び、政府・軍部の首脳は広島入りし、ここで戦争指揮にあたりまし。広島城の南、西練兵場には国会議事堂も仮設された。ここで10月18日から22日まで臨時帝国議会が開かれ、1億5千万にのぼる「臨時軍事予算案」が満場一致で可決されました(1893年当時の国家財政規模は約8500万円)。こうして、1895年4月17日に日清講和条約が調印され、天皇が広島を離れるまで広島は臨時首都になったのです。

以降広島は侵略の前線基地としての役割をはたすこととなりました。しかし、1945年の原爆は、木造白亜二階建ての大本営を一瞬にしてふきとばしてしまいました。

右の写真は2013年5月17日撮影。

 
   
 また、大本営跡前の3本のクロガネモチ(右の写真)も被爆樹、「爆心地から910m 1894(明治27)年の日清戦争開戦後、広島城内に大本営がおかれました。このクロガネモチは、大本営前庭の車回しの植え込みに植えられていたもので、1945(昭和20)年の原爆にも耐え、生き残りました。」と1998年3月に説明板が付けられました。(被爆の痕跡は判らず)。 2003年3月5日、被爆樹として「公開治療」が行われたと報道されていました。

左の写真は2013年4月17日撮影。
   
 右の写真は2013年4月17日撮影。  
   
   左の写真は2013年4月17日撮影。
   
 左の写真は2013年5月17日撮影。
   
            
   
 

なお日清戦争といっても、朝鮮半島が戦場だったことは忘れてはいけません。日清戦争について、韓国で勉強してきました。興味のある方は下を見てください。


 
 「軍都広島」の源流を韓国に訪ねて  
   
   なぜ、ヒロシマ案内が韓国案内に?広島が原爆の投下目標になった原因の大きな一つに、広島に大本営が置かれた日清戦争を見逃す訳にはいかないことは何度も言ってきてます。そして「今も続く朝鮮人差別」について触れています。その勢いでか、ついに日清戦争の戦場となった韓国の現地へと飛んでみました。
   
 

1999年8月、第十一次日韓被爆者交流会へ参加して、益山(パクサン)での湖南支部での交流会・聞き取り調査の後、日清戦争での戦場であった韓国は、甲午(カポ)農民戦争の指導者「全捧準」(チョンポンジュン)の業績を保存してある、井邑(イウ プ)の「東學革命」記念館や、その活動拠点を訪れました。

1894年からの日清戦争の起こりは、時の李朝政府の農民への虐政に対する農民蜂起(東学党の乱)で、全捧準率いる農民軍が政府軍を圧倒したため、政府が鎮圧のため清国の支援を要請し、その際、以前から朝鮮半島の支配権を狙っていた日本が、勝手に出兵し、清国と共に、農民軍を弾圧したことから始まります。その中で、日清両国の支配を恐れて一時李朝政府と農民軍との講和が成立し、農民的民主自治が成立したかとも見えましたが、政府の撤兵要求に日本軍は応じず、日本と清国との戦争に発展しました。両国の朝鮮半島を舞台とする戦争に日本が勝利した後、再び政府は、日本軍と共同して農民軍の弾圧に乗り出し(公州決戦)、2万人とも言える農民軍を無慈悲にも弾圧、全捧準等幹部は処刑されました。さらに、日本は李朝の中に暗躍、皇后の暗殺、脅迫するなどしながら、介入を強め、1905年の日露戦争後、皇帝の署名を偽造するなどして条約を締結する等して、1910年「日韓併合条約」で、朝鮮の植民地統治が始まったわけです。(以上、かなり思い切った歴史の要約で、李朝内部と農民軍、清国、日本の関係はもっと複雑にからみあっています。誤解があれば申し訳ありません。)

   
 

井邑(イウ プ)では、崔日出(チェイルチュン)韓国原爆被害者協会会長さんや、湖南支部の方達、「東學革命」記念館長、バスガイドさん等の、熱のこもった説明を頂きました。「東學革命」についての誇りと愛着が強く感じられました。それに引きかえ、説明を受けた筆者の「知ってるつもり」の浅はかさ、「朝鮮の歴史」の不勉強を思い知らされました。なお、この記事を書くにあたって、「廣島大本営」はもとより、朝鮮の歴史について、日本の教科書や参考書が殆ど触れられていないのも、日韓相互理解の上で大きな障壁になっていることも改めて知ることとなりました。

上の写真は、日本軍・清軍と対決する農民軍の絵(井邑「東學革命」記念館にて)

右の写真は「東學革命」指導者、「全捧準」像(井邑にて)

下は閔妃遭難の地(1895年10月、日本軍にて暗殺さる。ソウルにて)

  なお、全捧準の「捧」の文字は、て偏は、正確には王偏です。