10.歩兵第十一聨隊門柱・碑 (中区基町21・広島城外東) | |
広島城の東側の壕に沿って歩き、池田勇人の像を過ぎる木陰に、「歩兵第十一聨隊」と刻まれた門柱があります。傍らには1980年建立の記念碑が立っています。記念碑に記された同隊の構内図によると、歩兵第十一聨隊は、十四個中隊と通信隊などからなり、敷地内には聨隊区指令部や歩兵第九旅団司令部がありました。西は広島城内堀から東は八丁堀まで、南は中央テニスコートから北は裁判所官舎までの広大な敷地の四方は壕で囲まれていました。 1875年に、広島鎮台第二三大隊から歩兵第十一聨隊と改名され、翌年の萩の乱に出動したのを皮切りに、西南戦争、京城の変(1892年)と出動していきました。1894年の日清戦争では、宣戦布告に先立つ2カ月前に出動命令が下され、宇品港から大陸に向かいました。以降、第五師団の基幹部隊として行動しました。1937年の日中全面戦争開始以降は、歩兵第十一聨隊に代わって歩兵第一補充隊(中国第一〇四部隊)が設けられていました。 |
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1945年8月6日、旧広島城内の司令部とそれを取り囲んでいた、歩兵・工兵(白島北端)・輜重兵の各兵舎は、約1万5千人(推定)の兵員とともに壊滅しました。 アジア・中国の人達に対して残虐な殺戮の限りをつくし「マレーの虎」と恐れられました。そばに慰霊碑が立っています。この碑文に、訪れたマレーシヤの人が、地をたたき頭を垂れ、号泣したというのは有名です。アジア、特に中国系の人達は、知っていれば、このあたりいやがって訪れようとしません。 |
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アジア大会の前、1994年8月に碑文の中の「支那」「支」「大東亜戦争」「昭南神社」「各々勇戦奮闘、克く郷土の名声を高揚した」等刺激的な文句が書き換えられましたが、反省の無いのは変わってません。 | |
右の写真は1994年6月1日、書き換えられる前の碑文を見ました。 | |
歩兵第十一聨隊略歴(書き換えられる前) 一、明治八年五月広島のこの地に創設 同年九月九広島市聨隊旗拝受。 二、明治九年十月萩の乱に出動。 三、明治十年西南の役に出動。 四、明治二十七年日清戦役に出動、朝鮮、北支各地に転戦し、二十八年七月復員。 五、明治三十三年北清事変に出動 六、明治三十七年四月日露戦役に出動、南満州の各地に転戦し、三十八年十二月復員。 七、大正八年七月シベリアに出兵。 八、昭和十二年七月二十七日支那事変に出動、北支、中支、南支の各地に転戦。 九、昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島に転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる。同年八月二十六日昭南神社において軍旗奉焼、創設以来七十二年の伝統を遺して解隊する。 十、この間、昭和十二年日支事変以降、歩兵第十一聨隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊 、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々勇戦奮闘、克く郷土部隊の名声を高揚した。 昭和五十五年七月歩十一会 歩兵第十一聨隊略歴(今) 一、明治八年五月広島の地に創設 同年九月九日聨隊旗受領 二、明治九年十月萩の乱に出動 三、明治十年西南の役に出動 四、明治二十七年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦 同二十八年七月復員 五、明治三十三年北清事変に出動 六、明治三十七年四月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部) の各地を転戦し、同三十八年十二月復員 七、大正八年七月シベリアに出兵。 八、昭和十二年七月二十七日中戦争に出動、中国全土を転戦 九、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加 し、のち南太平洋諸島を転 戦中、昭和二十年八月十五日 終戦となる。同年八月二十六日シンガポールにおいて軍旗 を焼く。創設以来七十二年の歴史を閉じ解隊する。 十、この間、特に、昭和十二年日中戦争以降、歩兵第十一聨隊 を母体とする藤部隊、槍部 隊、開部隊、望部隊、西部第 二部隊等を創設、各々克く健闘した。 ここに、聨隊跡碑を建立し往時を偲ぶ縁とする。 昭和五十五年七月建立 平成六年八月改刻 歩十一会 |
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(門柱の由来)(原文のとおり) この石柱は歩兵第十一聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の商人とも言える記念すべき門柱であります。しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります。幸い篤志家の手により広島市立福木保育園に保存されていたもので今般譲りうけゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります。 |
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(歩兵第十一聯隊兵営配置図) | |
左の写真は2001年1月、修学旅行生を案内される村上啓子さん。 | |