11.陸軍幼年学校門柱・碑・クスノキ・説明碑文・地図碑 (中区基町21・広島城北東端) 
   
 

RCC(中国放送)の北側、緑地公園内に「広島陸軍幼年学校」の正門石柱が保存されています。その傍らには、1971年建立の「幼年学校碑」があります。

 幼年学校は、日清戦争後の1897年創設されました。士官学校の予科的性格をもち、全国6カ所(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に同時開校しました。当初は、日清戦争の際に建てられた仮設国会議事堂の建物を利用していました。1928年のパリ不戦条約に基づく軍縮で一旦廃校となりましたが、1936年に復活、広島城の北側に「広島陸軍幼年学校」として再開しました

左の写真は2013年4月3日撮影。

   
 現役下士官の直接教育で軍のエリート中のエリートを育てる学校で当時の軍国少年達の憧れのまとでした。爆心から、1.1キロで炊事室を除いて校舎は全滅。しかし「金の卵」たる13〜14歳の生徒達は、1945年春県内農村部へ学校と共に疎開していたために、少数の留守部隊以外は無事でした。(49期3,345名の卒業生を輩出)

右の写真は2013年4月3日撮影。
 
   
 なお、このすぐそばのクスノキも被爆樹であす。(被爆樹木クスノキ 爆心地から1,120m。このクスノキは、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、生き残ったものです。途中で折れ曲がっているのが、被爆の影響と見られます。)と説明板があります。2004年3月6日公開治療と報道(中国新聞)

左の写真は2006年6月16日撮影。
 
 右の写真は2013年4月3日撮影。
 
 

また、壊滅した広島城の説明板もすぐそばにありますが、説明文があまり正確でないので、評判は今一度です。

左の写真は2012年9月15日撮影。

誇り高き陸軍幼年学校説明碑文と地図碑


幼年学校門柱のすぐ左(西側)、単なる敷石と思って見過ごしていましたが、反対側から歩いてみたら、以下のような誇り高き説明碑文と、かなり広範囲の、判りやすい地図碑(開校当時の位置もしめした)があるではありませんか

 廣島陸軍幼年学校は明治天皇の聖旨により明治三十年広島市基町に開校し、昭和三年軍縮のため一旦廃校となったが、昭和十一年再興。爾来昭和二十年に至るまで累計三千三百四十五名の将校生徒を育成した。これらの同窓生は皆克く國軍の禎幹として永く邦家守護の重責に任じ、また戦後復興の柱石として活躍した。ここに在りし日の母校を偲び原爆の劫火に耐えた校門を修復して永くこれを記念する。

昭和四十六年六月吉辰 同窓生一同

   

誇り高き説明碑文がすぐ左手(西側)に、当時の地図とともにうずくまっています。(上、右に)

また2003年4月、府中町多家神社(えの宮)に紀元二千六百年記念碑を支える形の慰霊碑が新たに建てられました。

 

   
左の写真は2002年12月2日、埼玉県の中学生を案内して。