13.広島逓信病院(資料館と階段モニュメント)(中区東白島町19−16)
   
   1935年の建築。爆心地より1.4kmの場所にありながら焼失を免れました。被爆の1カ月前、万一の場合に備えて全入院患者を退院させていたので、混乱は少なかったといいます。しかし、夕方には、病院の庭、入口、廊下など、あらゆる場所を重傷者が埋め尽くし、病院の全職員が一致して治療にあたったといいます。

左の写真は2013年4月3日撮影。
   
 右は資料室前の説明板  
   
   平和公園内にある被爆アオギリはここで被爆したものです。建物の下敷きになりながら、奇蹟的に救出され、このアオギリの下で寝かされ、大腿部切断という被爆の障害にもめげず、熱心に平和運動に取り組まれてきた沼田鈴子さん(2011年7月12日亡)が被災され手術されたのはここです。(土日等休日は駄目、8月6日にはここ数年開放されているそうです。慰霊式もありますのでそのつもりで。)

左の写真は1995年12月26日撮影
   
1973年に建て替えられ、かっての診療棟のみが残されていましたが、1995年8月、旧診療棟(外来棟)の一部が小規模な資料館として再生されました。当時の手術室も復元されています。広島逓信病院に申し込めば無料で見学できます。

※郵政民営化のあおりで資料室の管理は郵政公社から逓信病院に。以下は、日本グループ広島ビルの方へ。」

右の写真は1995年12月26日撮影
 
   
 左の写真は1995年8月24日撮影
   
 右の写真は2002年12月23日撮影

子どもたちを前にここで手術を受けたことなど説明する故沼田鈴子さん。
   
 左と下は、逓信病院階段モニュメントと、写真を見ながら階段を降りたところで見たきれいな光、赤や「青い光(東海村臨界事故で故大内さん等が見たのと同じような)のことを説明する沼田鈴子さん。

左の写真は1993年12月14日撮影。
   
 関係の郵便局は市内に散在し、犠牲者の数も五百を超えるといいます。焦熱地獄の中に散った本局員288人をはじめ、全て合祀されました。当時の階段のモニュメントに米軍戦略爆撃調査団の撮影した当時の写真が、銅板にしてはめこけられている。

右の写真は2002年12月23日撮影