19.忠魂碑    (安佐南区山本一丁目20番・山本小学校前バス停裏)

   

 旧国道から山本方面のバス通りに入ってすぐ右、山本小学校前バス停の裏にあります。1994年訪れた時はこの回りは空き地で、目立っていましたが家屋が立て込んできており、バス停がすぐ傍にあります。

昭和34、5年までは、ここに山本小学校があり、その正門付近にあったものという。卒業生は覚えている、とお便り頂いていますが、今(2012年10月)バス停で待ち合わせている人は何を感じるだろうか。

  写真は2012年10月5日撮影

  表 忠魂碑 陸軍大將鈴木荘

  左 昭和十年三月十日山本村民建之

  右 無し

    裏 發起者 帝国在郷軍人會山本分會

   
  建立の経緯等=西尾隆著「広島のいしぶみはみつめる」第2集 2000年より

慰霊対象:旧安佐郡山本村の戦没者。日中戦争・太平洋戦争の戦没者は64名、このうち原爆犠牲者は32山本地区民有志・遺族会、1967年(昭和42年)月修復、合祀。
「台湾討伐」名、「北清事変」1名、日露戦争」名、「第次大戦」名の各戦死者の忠魂碑として建てられたものである。

石碑には「昭和1010日 山本村民建之」と刻まれている。

 太平洋戦争終結後、忠魂碑撤去の指令に地区民は苦慮したが、「忠魂碑」の文字にセメントを充填し,「平和塔」として保存した [1
 日本の独立とともにセメントを除去して忠魂碑に復元し、1967年(昭和42年)に修復して日中戦争・太平洋戦争の戦死者を合祀した。戦没者名簿[2]によれば,それらは「軍人」33名、「軍属」1名、「国民義勇隊」名,「徴用工」名,「勤労報国隊」名,「動員学徒」24名の合計64名である。

上記の国民義勇隊、徴用工、勤労報国隊,動員学徒の全員に、軍人名と軍属名を合わせた32名が原爆死であったと記録されている[2
 毎年
月5日に、午前時から碑前で遺族、地元民による慰霊祭が営まれている。

山本地区遺族会・久保綾子氏(広島市安佐南区山本9丁)、古川静登氏(広島市安佐南区山本8丁目‥198353日.

1]祇園町誌編纂委員会‥祀園町誌,P457458,祀園町役場[現広島市安佐南区役所祇園出張所(安佐南区祀園2丁目487)]1970年.

2]祀園町誌編纂委員会‥祇園町誌,P460481,祀園町役場[現広島市安佐南区役所祇園出張所(安佐南区祀園2丁目487

写真は2012年10月5日撮影