36.光町毅堂翁碑 (東区福田二丁目97−3)
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温品街道を北へ、広い道に出、山陽自動車道近くに記念碑前というバス停がある。 表 光町毅堂翁碑(横に) 碑文要旨「明治16年戸長、22年から34年まで福木村長をやり、征清之役、北清之役に道を切り開き山林を開発し、労役を出し、金を出し、戦争協力に多大な功績をあげ、叙勲七等を得、村会が明治44年8月、辞めた後、大いに讃えたというように読める。日清戦争で手柄をたてた人を讃える記念碑。大正九年高田似 書」 右 大正九年八月吉日 左 安佐郡福木村建馬 |
※建立の由来
翁の幼名は東作、のち尽三郎と改めた。姓は光町、号は毅堂。光町家は、代々村の豪 農であったが、光蔵君の代に酒造も始めた。君は佐々木氏より嫁をとり、天保9年(1 838)10月5日、翁が生まれた。翁は、初め学問を木原桑宅に、武芸を原毅平に学 び、のち僧弘教について仏典を修めた。明治16年(1883)福木村戸長に、20年 (1887)には福田・馬木・小河原村戸長に任命された。22年(1889)福木村 長に選挙され、34年(1901)にやめたが。36年(1903)に再び村長となり 、終生その職にあった。
翁は、在任中教育に尽力し、高陽高等小学校の連合に加わらないで、高等科を福木尋 常小学校に併置した。児童の就学の便を考えて之ことであろう。これは安佐郡内におけ る併置校の最初であった。校舎の新築を急ぐならば村民の負担が重すぎるので、少しず つ資金をため、ほどなく三千円に達した。このように、いつも民心の給養に心がけ、歳 入を考えて歳出をおさえ、課税のバランスにつとめた。また、上深川から福木を通り広 島に通ずる里道がせまい石ころ道であるため、通行人が難儀をしていることを考え、こ の改修を計画し、沿道諸村と相談して、役員や県会に請願し、1年をまたずしてこれを 完成した。また、以前より役所は造林をすすめていたが、これを軽視する村民もいたが 、役所の許可を得て福田村共有林約300町歩を日露戦争勝利記念林とし、濫伐をいま しめたので、今では全山林樹木が茂り、樹価は3万円になるという。
明治22年(1889)、県は特にその働きを調べ、賞を授けた。日清戦争・北清事 変でもそれぞれの労を賞し、木盃を賜った。また日露戦争で功績があり、勲七等を授け られた。34年(1901)、村会はその功をたたえ、銀盃を贈り、のち遺績を追頌し て金盃を贈った。その他、おおくの賞を受けている。しかし、急に病を得て、ついに起 たなかった。明治44年(1911)のことであった。翁の性格は、落ち着いて意志が 強く、質素で毀誉に心を動かさず、自分から実践することに心がけていた。大林氏と結 婚し、四男二女をもうけ嫡男英太郎が家を継いでいる。村民が相談して、翁の功績を石 碑にきざむため、銘を求めに来た。私はこの村の出身であり、翁の家とは代々の交際も あるので、ここに銘す。