1−3.似島(3)弾薬庫見張り所と土塁、朽ちた弾薬庫跡

 弾薬庫は強固な土塁の囲まれて六つあったと思われます。その内、冒頭のものを除いては、学園の寄宿舎に使われたり、荒れ果てたりしており、次々と壊され撤去されていっています。(1919年、旧陸軍が似島南部に建設したもの。

写真は2004年5月15日撮影
   
 

ついに、2001年12月23日、所有する中国財務局から、似島学園が買い取り、倉庫として使用している一棟を除いて、取り壊しが発表されたと新聞に報じられました。

広島市も含めて関係者の、「平和学習」の見学コースにもなっているから是非保存を、という要請、があった中で、「このままでは危険」という理由です。もう、皆さんの目からは右の一つを除いてみることは出来なません。また、貴重な歴史の証人が消えました。

 写真は2004年5月15日撮影

 
 写真は1995年4月22日撮影
   写真は2004年5月15日撮影
   
   なお、弾薬庫の南北にはそれぞれ「見張り所」があり、往時の想像力をかきたますが、これは2004年5月15日、左のの写真のように残っていました。
   
 

弾薬庫跡から平和養老館へ行く途中、「呉要塞地帯」「海軍省」と良く読めば読み取れる石碑がたっています。1898年9月陸軍省告示で呉要塞区域は決定、翌年指定されています。(写真)

 

後、1903年には「廣島湾要塞地帯」改称されています。


2004年5月15日撮影。