1ー4.似島(4)多くの原爆犠牲者の死体を焼いた防空壕跡

南の見張り所から降りて、次の建物との間に防空壕の跡が見えます。単なる防空壕ではありません。兵器か医薬品を入れていたのではないのでしょうか。そして被爆時には多くの被爆者が収容され死んでいった穴であります。ビニールに塞がれた穴に気が付きます。その反対の民家側にまわると、煉瓦造りの立派なトンネルであることが判ります。なお、似島学園周辺や臨界自然の家付近には筆者が初めて訪れた1993年頃には、まだまだ多くの壕がありましたが、今は「危険」ということで、殆ど封鎖されてしまっています。


左の写真は1993年4月11日撮影。 
   
 
   
 左の写真は1996年8月撮影。
   
 

なおずっと東端に歩いていくと、「馬匹検疫所」のあったところ、現小中学校がありますが、そのグランドから1971年、推定600体の遺骨が発掘され、翌年、広島市により慰霊碑が建てられました。
 右のの写真は2004年5月15日のHIP主催のフィールドワークのときのもの。
 
「千人塚」という地元の人が建てていた慰霊碑のすぐそばといいます。原爆投下後は、陸軍暁部隊によってこれらの施設に1万人以上もの被爆者が収容され、その多くは亡くなりました。この島で多くの死体が焼却され埋められました。1971年、似島中学校のグランドから推定六百人ばかりもの遺骨が掘り出され、それを契機に広島市によって慰霊碑が建てられました。なおそれより先に、この南に地元の人が遺骨を埋めた千人塚というものが立てられていましたが、二千人もの遺骨を平和公園の供養塔に納め今はありません。しかし、この島にはまだまだ多くの遺骨が眠っているものと思われます。

2004年5月26日から、地元からの要望にもとづき、広島市が、71年の発掘地域の隣接地で、未調査だった地域約75平方メートル(幅約3メートル、長さ約25メートル)を対象に3度目の発掘調査を始めました。7月26日現在で新たに推定85体の遺骨と様々な遺品が出てきています。2004年7月26日〜8月中国新聞特集に) 2004年8月2日には原爆死没者慰霊式が行われています。 また、広島市が「祈るには手狭」として移設、整備するとの報道(2006年7月6日中国新聞)がありました。

   
 

碑文

「 慰霊

  「昭和20年8月6日 広島市は人類最初の原子爆弾によって、一瞬のうちに20数万人の死傷者を出した 負傷者は各所に避難し ここ似島にも1万人余におよぶ人々が収容され 応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し 混乱のなかちはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り悲しくも20有余6年の歳月が過ぎた 昭和46年 はからずもこの地から遺骨が発見され推定517柱を発掘し原爆供養塔の合祀した。ここに1周年を迎え、諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たにしてこの碑を建立する。」

 裏 昭和47年11月 広島市長 山田節雄

右の写真は2004年5月15日。