2−1.機密の島「金輪島」で見たものは (1)

 

道路脇に防空壕(軍需物資用)跡を見る

いつも「比治山陸軍墓地」から海の方を展望すると、赤いヤグラが立ち,真っ先に眼に飛び込んでくる「金輪島」、2000年までは、似島や宮島、まだ紹介していない江田島、倉橋島等多くの島に戦争遺跡を求めて行っていましたが、ここだけは、今は金輪島造船所となっており、かって仕事で行った経験、さらにこの島について書かれた文献に殆どお目にかかっていなかったため、人を案内する自信が無く行きそびれていましたが、2000年は偶然ですが、なんと3回も渡りました。最初は、1994年に江種祐司氏が書かれた資料一つだけでの「冒険旅行」、2回目は8月7日の海のクルージング・フィールドワークでの参加者として、3回目は、ついに「案内人」として

   
 
   
 

1992年、陸軍船舶司令部がおかれ、隷下の部隊として陸上勤務第209中隊(暁1989部 隊)が、戦争末期には野戦船舶本社の一部もこの島に置かれ、全島で、動員学徒が働いていました。空辰男さんは著書「加害基地宇品」の中で、ここでベニヤ板で造った舟(○レ)での特攻訓練に明け暮れていた時に、6キロ離れて炸裂した原爆を見たと書かれています。

宇品の市営桟橋から15分も船に揺られて行くと、造船所に着きます。クレーン群の中にも戦争中使用されていたものがあるといいますが、ちょっと見分けがつきません。眼に飛び込むのはナンバープレートの無い車(ここでは道路交通法は適用されていない)と、道路脇に数多く口を開けている防空壕(軍需物資が貯蔵されていた)の跡です。

そこから、当時の水道の跡やもっと大きい壕を探して幾つか見つけますが、写真で紹介しても何のことか判らない状態で存在を確認。

   
 それより、海岸 沿いの頂に、何か大きな「碑」が立っているのに気が付いきました。そばに行って見ると八つの文字が削られています。ちょうど、付近の人に出会ったので聞いてみると「死者を慰めるようなものではなかった、戦意を高揚させるような文章だったはず」といいます。それで削られている理由がおぼろげながら判りました。たぶん「八紘一宇」とか「皇威輝八紘」、「皇運扶翼」とかいったたぐいの文章だったのでしょう。