「世界遺産・毛利元就」の宮島に残る、軍都広島の跡 

 4−1.(宮島1)鷹ノ巣浦砲台跡
   こでは、世界遺産になり、NHK大河ドラマ「毛利元就」で注目された、年間三百万人も観光客を集める宮島の、殆ど誰も訪れることのないもう一つの顔「軍都広島・朝鮮人強制連行」の跡を紹介させて頂きます。1997年2月9日、「広島の強制連行を調査する会」の出している「地下壕に埋もれた朝鮮人労働」という本を読んだ東京の方からの要望がきっかけで、ささやかなフィールドワークを企画したところ、「被爆者証言の集い」の久保浦寛人さん(2010年9月30日亡)や、いつもテレビに広島の平和運動の顔として出ている方、アメリカに何度も被爆証言の旅に行っている松原美代子さん等の参加を頂いた。とくに、松原美代子さんは、前年はスミソニアン問題の波紋もあって、証言を聞いてくれる人も少なく、寂しくベソをかいておられるところがテレビにも放映された次第で、「原爆被害」のことだけでは、説得力がないことを身を持って体験したことが、参加のきっかけということであり、彼女の熱意と感動が身に迫り、まことに案内しがいのあるものとなりました。彼女は次は毒ガスの大久野島へ外国人を連れていくといいます。また、新しい「軍都広島」も語れる「証言者」の誕生を目の当たりに見て感動しました。

左の写真は2003年2月9日撮影。

2013年11月26日、10年ぶりにフィールドワーク、以下に報告していますのでクリックしてください。

10.2013年11月26日、宮島砲台跡等旧軍施設フィールドワーク、鷹ノ巣浦砲台跡(1)〜(10) (11)〜(20) (21)〜(30) 鷹ノ巣浦見張り所跡(31)〜(40) (41)〜(50) 鷹ノ巣山砲台跡(51)〜(60) (61)〜(70) 鷹ノ巣山見張り所跡(71)〜(80) (81)〜(90) 鷹ノ巣山から包が浦へ(91)〜(100) 包が浦壕跡、謎の礎石、弾薬庫跡(101)〜(110)
   
 

 

まず、車で海水浴場、キャンプ場となっている包みが浦へ行く手前の杉の浦のシーサイドホテルのあるあたりに戦時中、朝鮮人の飯場があったといいますが、今は何も残っていません。包みが浦に着くと公園の入口に、毛利元就の厳島合戦のあとを示す「毛利元就上陸之跡 昭和十六年 広島陸軍兵器補給厰長 岡田護 誌」という石碑がありまあす。その手前に現天皇が皇太子時、1975年に訪れた時に危険だと封鎖された穴の跡がいくつも見えます。海水浴場の回りにもあちこち見えますが、誰も見向きもしません。

これらの写真(2003年2月、砲台跡はずり落ちていました。)は鷹ノ巣浦海岸の砲台跡。長いのは12メートルもの砲台が12門ぐらい造られていました。今は崩れていて、左上の見張り所跡?の右下に丸い砲台跡が見えまあす。多くの砲台跡はカキ殻の山の中に埋もれています。写真では伝えられない程の壮観です。  

右の写真は1997年2月9日撮影。
 
 右の写真は1993年3月7日撮影。  
 左の写真は2003年3月27日撮影。

   
 なお、砲台は1897年頃、ロシアのバルチック艦隊をおびきよせて迎え撃つために造られたというもので、1921年、ここまで敵が攻めてきた時はおしまいだということで大砲は奄美大島に移されたといいます。故司馬遼太郎の言では、日露戦争の「勝利」後、日本人の理性は麻痺してしまったといいます。壕は時代が下って太平洋戦争時のものであることをお間違いなく。また、原爆投下直後、多くの人間や馬の死体がこの海水浴場へも流れついたことも決して忘れてはなりません。

右の写真は2002年9月29日撮影。
   
 右の写真は2002年9月29日撮影。
   
 左は、カキ殻の山が崩れて顔を出した砲台跡。 2002年9月29日撮影。

    2002年9月29日及び2003年3月9日に宮島砲台跡等旧軍施設フィールドワークを行っています。下記をクリックして頂ければ108枚の写真が出てきます。

室浜(1)〜(10) (11)〜(20) (21)〜(30) 大願寺(31)〜(34) 礎石と壕(35)〜(39) そばの行き止まり壕(40)〜(46) 鷹ノ巣浦先砲台跡1(47)〜(51) 鷹ノ巣浦先砲台跡2(52)〜(60) 3(61)〜(67) 鷹ノ巣浦砲台跡(68)〜(77) 鷹ノ巣山砲台跡(78)〜(83) 謎の見張り所(84)〜(92) (93)〜(101) 包が浦貫通穴(102)〜(108)

2003年3月27日には金沢大学の学生さん30人を案内しています。鷹ノ巣浦砲台跡(1)〜(10) 鷹ノ巣山山頂砲台跡(11)〜(20) 不思議な礎石、包みが浦壕(21)〜(30)

2006年5月21日中国新聞に宮島の鷹ノ巣高砲台跡を整備と報道されています。