10−2.亀が首大砲試射場、烹炊場、高等官詰所跡等(倉橋島)
兵員食堂(烹炊場)から、その奥は大変な藪。良くみると赤レンガの建物らしきものが見えます。藪を掻き分けながらて進むと、見事な「赤レンガ」の建物が姿を見せてきます。良く見ると、空気抜きの天窓、アーチ型の入り口や小部屋の窓。壁は見事名赤レンガ。さらに奥にいくと「二重ドーム」があります。一体なんに使ったのでしょうかか。将校たちのしゃれたサロンでしょうか。2012年5月に行ってみたら「事務所及び高等官詰所」の立て札がありました。夏は蛇が怖いのもあり、たぶん無理。冬でも大変です。ひょとしたらもう入れなくなってしまっているかもしれないと思いながら2012年5月8日行ってみましたら何とか入れましたが、1998年のフィールドワーク時のような訳にはいかないことを思い知らされました。(写真は一枚を除いて、1998年2月のフィールドワークのもの、故宮崎安男さんー2007年2月16日亡、久保浦寛人さんー2010年9月30日亡ーにも参加頂きました。)
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明治末期から終戦まで、倉橋町には、旧呉海軍工廠の付属施設などが集まっていました。しかし広島県が1996、97年度に実施した「近代化遺産調査」からは、本格調査に時間がかかる、という理由で、調査対象から外されています。 右の写真は1998年2月11日撮影 |
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左の写真は1998年2月11日撮影 | |
「広島の強制連行を調査する会」は、1992年「強制連行調査のためのトンネルマップ(島編)」「で亀ケ首」を次のようにまとれられています。 右の写真は1998年2月11日撮影 |
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また中国新聞の2001年12月7日付けに、倉橋町史執筆委員 管信博さんが「島のまち」再発見で「秘密基地の記憶」という文章を寄稿されています。海軍施設の歴史とともに特殊潜航艇などや軍関係の資料と記憶が薄れていくのを嘆いておられました。 左の写真は1998年2月11日撮影 |
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