10−1.亀が首大砲試射場、烹炊場、高等官詰所跡等(倉橋島) 

倉橋島の東南端、大迫をとおり、急坂の細い道を下ります。地元の人には招かざる客のようで、かなり上に車を止めて長く歩いて降りなければならず、また門柵もつけられています。なんとか海岸沿いを歩いて行き、水びたしの大きいトンネルを抜けると、67年以上前にタイムスリップ。どんどん広がってきて、左手の海岸には大砲を海に向けて試写した突堤が飛び込む。旧海軍が戦艦「大和」の大砲を試射していたことはその筋の人には有名ですが、ここで毒ガス砲弾の試射訓練をしていた、との証言も報じられています。(左の写真は2012年5月8日撮影。)

2013年3月11日ここで、慰霊祭が行われたと中国新聞ホームページに出ています。

       

 

   

2007年8月25日より朝日新聞広島版ホームページに、「特殊潜航艇の記憶」という記事 <1>東条の葉巻、<2>試射場跡、<3>豆潜水艦 から<8>証言活動と連載され、この突堤から「真珠湾」(太平洋戦争の開戦の端緒)に突撃していった、「特殊潜航艇」の件とこの基地の役割が、詳しく出ていました。

2006年3月14日中国新聞ホームページに「大和ゆかり呉の元射場整備が進む」と報じられ「大浦崎の特殊潜航艇の訓練場跡」や「袋ノ内、貯油タンク跡」等とともに「戦跡探訪ハイキング」も企画されていたようです。

 右の写真は1992年11月撮影
   
 

また2006年11月11日、ここでの訓練中の事故などで亡くなった人たちのために「供養塔」が建設されたと報じられています。(2006年11月13日中国新聞)

(1997年8月14日、1998年8月17日中国新聞に。さらに元海軍技師、高橋市太郎さんの生々しい証言も{寒川町史研究 第6号 1993年}あります。)

左の写真は1998年2月11日撮影
   
 大砲試射場の少し手前の草むらは「弾薬庫広場」、抜けると兵員食堂だっと思われるコンクリート製建物(烹炊場)までたどりつきます。以前はこの建物が見えたのですが、2012年現在は広がった草むらを歩いて行かなければわかりません。その奥に進むと、見事な「赤レンガ」の建物(事務所・高等官詰所)が姿を見せてきます。「広島の強制連行を調査する会」92年出版の「地下壕に埋もれた朝鮮人労働の表紙になっている建物についにたどりつきます。と言っても2頁に分けて6枚ぐらいでは紹介しきれませんが。1ページ目は大砲試射場と兵員食堂(烹炊場)です。


 右の写真は1998年2月11日撮影
   

2012年5月8日、再調査しました。入り口の廃棄物処理場に門柵がされており、車もかなり上に止めざるをえず、以前のように皆さんを案内するようなことは、ちょっと無理のようになってしまいました。行ってみてダメならあきらめるつもりでなければ、案内できません。

 2012年5月8日の再調査の様子を40枚の写真に収めています。ご覧になりたければここをクリックしてください。

  左の写真は1998年2月11日撮影