5.松源山浄光寺山門  (南区荒神町2−1) 
   
   広島駅南口から東に歩いて行き、「あかずの踏切」を横に見て過ぎて、「ビジネスホテルあずま」という看板を右折すると左手に見えます。全焼地域の中で、珍しくも唯一残った木造建物です。約三百年前建てられたこの建物は、戦後境内の縮小にあって、約50メートル、コロにのせて移動されたといわれています。駅から歩いて5分程度で余り知られていない稀少な物ですから、30分ぐらい駅で待ち時間があれば是非立ち寄られたら。

 爆心地から約2.1キロ。この駅前地区は、火災により70%がその日の内に焼失、残った家屋も崩壊して殆ど全滅でした。かろうじて、現在の駅北口にあたる東練兵場に逃れた人も、多量の出血や火傷で瀕死の重症に呻き、苦しみながら息絶えていきました。


左の写真、2012年5月16日撮影。
 この過酷な被害の中で本堂を焼かれ、墓碑さえ高熱で破壊された中で、この山門だけが荒廃した焼け跡に傷つきながらも、ポツンと残っていました。その経過については今に知る人もいません。罹災後の焼け野原に原形を残した山門に、四所帯程の被災者がしばらくの間住みついているのが見受けられたといいます。強烈な爆風と熱線、町を焼きつくした猛火、その中で生きながら焼き殺されていった市民の姿、当時の惨劇を知る証人として、今も古めかしい山門はその雄姿を止めています。山門の西側廻り廊下に象の彫り物りが取り付けられています。これも山門とともに焼け残った美術品です。1996年に広島市の補助を受け、保存工事がなされています。

右の写真は2012年11月28日撮影。数人で訪れたところ住職さんが快く案内して下さいました。

もはや被爆70年がいわれる時代、爆心地から1キロ以内のお寺でも、20年前なら訪問したら一生懸命説明してくださったお寺でも「関係者以外立ち入り禁止」と訪問してもいぶかられるお寺も多くなった現在、快く案内して頂けるお寺は少なくなりました。
何回も追い出される経験した身には、一生懸命説明して下さる住職さんには頭が下がる思いでした。
 
 

 

墓地に入ってみれば、「昭和二十年八月六日」と被爆死が判る墓石が多く見受けられます。(左の物、昭和二十年八月六日 戦災死妙子 十五歳、他にも昭和二十年八月六日 三次四十四才、昭和二十年八月六日戦災死 俊子二十二才、昭和二十年八月六日亡 妻 敏子二十八才、同 武雄長男 勝彦 4歳、等すぐに目に飛び込んできます。合掌。

 このような写真、その目で見れば結構プライバシーにもさわってしまうもの、正式に撮影許可を申し出ればまず断られますがあえて掲載しています。

筆者は、この地方では多い、あまり熱心ではない浄土真真宗の門徒。親や先祖の墓は浄土真宗のお寺にあり、年数回の参拝はしていると言った程度ですが、原爆の悲劇を判りやすく今に伝えるものとして、お寺の墓について特に注目し、可能な限り紹介しています。なんと広島では戦争の、原爆の犠牲者が多いか、遺族の苦しみは如何に、お墓ほど判りやすく伝えてくれるものはありません。
しかし、役所関係の出版物はもとより、多くの広島案内書物はプライバシーの関係でしょうか、避けています。それを敢えてこのようにこのホームページでは数多く紹介させて貰っています。

今までのところ、直接現地でお願いしたらまず断られますが、このように掲載してしまってから抗議されたことはありません。

写真は2012年5月16日撮影。

 爆心地から2キロを超えていますが、爆風と火災のためでしょうか。多くの墓石が下の写真のように傷ついています。(下の2枚は2012年10月18日撮影。)
   
 
 今迄「松原山浄国寺」と紹介していましたが、「松源山浄国寺」と替わっています。住職さんにお尋ねしましたが、今までのが間違いだった、というわけでもないようです。。
 

              

 
 下記のように説明板が取り付けられています。

「浄光寺(じょうこうじ)の山門(爆心地から約2.1キロメートル)

 この山門は、1690年(元禄3年)ごろに建てられたといわれています。1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市に投下された原爆の強烈な爆風により、山門の南側にあった寺の本堂は倒壊し、その後の火災により焼失しました。本堂にさえぎられたこの山門は、被爆に耐え、焼け野原の中にぽつりと残されていました。

 1996年(平成8年)、広島市被爆建物等保存・継承事業により、保存工事が実施され、被爆の惨禍を後世に伝えています。」