2.国前寺      (東区山根町32−1)
   
   爆心から2.6キロ。 全焼区域からは外れ、多くの被爆者が逃げ込んだお寺が多い。

 広い東練兵場があった関係で、現在ではほとんど民間に払い下げられているが、点々と現在でも国有地が残っているの多いのが、このあたりの特徴だ。
 被爆前、東練兵場が空襲に備えて救護所に指定されていたため、被災者の多くがこの寺の廻りに避難してきた。この寺にも数多く収容されたという。そして多くの人は、ここで次々と息を引き取っていった。
2003年11月19日撮影。
   
 

説明板

國前寺

日蓮宗寺院である國前寺は、「國前寺縁起」によると、暦応三年(1340)に安芸の国を訪れた日蓮の弟子日像が、尾長山の麓で草案を営んでいた僧暁忍に出会い、この時暁忍が日像に師事し、寺(暁忍寺)を開いたのが始まりであると言われる。その後、明暦二年(1656)に広島藩の二代藩主である浅野光晟その妻満姫の菩提寺となり、寺名を國前寺と改称した。これを契機に本堂、庫裏などの諸堂の造営が行われ、寺観が整えられた・

 平成5年(1993)に本堂と庫裏が国重要文化財に、平成7年(1995)に山門と境内地が市重要文化財に指定された。」

2003年11月19日撮影。
 
 (1)仁王門  
天保11年(1840年)建て替えられたこの仁王門は、原爆により屋根瓦はとび、天井は大破したが、1955年、解体復旧工事が行われ、昔日の偉容を偲ぶ姿となった。木造入母屋造り瓦葺2階建。 

左の写真は2003年11月19日撮影。



   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。
 
   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。仁王門裏側。
 
   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。
 
   
 右の写真は1994年4月2日のフィールドワークにて。
 
 (2)本堂   
 

1656年から寛文10年(1670年)にわたって建立され、寺の建物としては珍しい様式で独特な外観を有している。原爆により屋根は破れ、壁は落ち荒廃したが、1955年解体復元工事を行い、昔日の偉容を偲ぶ事が出来る。国重要文化財指定、木造寄棟綴造り、瓦葺。(2003年11月改築)


左の写真は2013年9月28日撮影。
   
   左の写真は2013年9月28日撮影。
   
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。  
   
 右の写真は1993年1月9日撮影。  
   
 (3)庫裏   
   1656年から約10年経て造営されたもので、寛文10年(1670年)に完成したものである。原爆により屋根瓦は飛び、天井は抜け、建物全体が北東方向に向き荒廃したが、焼失は免れた。その後の補修も応急的なものに止まり、トタンをかぶせたままで44年間置かれ、雨漏りがひどく床や柱が朽ち始めたので、1989年から解体復元工事が行われ、1990年完成した。復元前の瓦で、状態の良い物は使用されているとの事である。また、鬼瓦もそのまま建物正面の棟に姿が望見できる。国重要文化財指定。木造切妻造り、二重綴造り、瓦葺き。2003年11月改築。

左の写真は2013年9月28日撮影。
 (4)鐘楼  
    この建物は火災にあったため、1906年に復元されたもので、梵鐘そのものは元禄7年の銘が刻まれている。原爆により跨ははがされ、屋根は抜け、瓦は吹き飛ばされたが、焼失は免れれた。1955年の応急補修工事によって、約44年間このままで推移していたが、庫裏の復元工事とともに1990年6月、昔の姿に復元された。

左の写真は2003年11月19日撮影。
   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。  
 (5)無縁墓での仏塔    
   

三滝寺の無縁墓は有名だが、この駅から近い所にある国前寺の無縁墓にはそれと書いて無いのこともあり、訪れる人は少ない。東練兵場やこの寺で息を引き取り、一家全滅となった人達の墓が本堂裏手にある。原爆による無縁は市内の多くの寺にも見受けられる。他の地方では、無縁となった墓は整理されるのが普通だが広島では手厚く弔われている。

1993年11月に行って見たところ、場所を移動され、数も少なく古い墓だけで仏塔のように整理されている。 納骨堂に安置されたということである。

左の写真は2003年11月19日撮影。2013年9月28日のフィールドワークでは確認できなかった。

寺の墓石には、昭和二十年八月六日と刻まれた墓が数多く見受けられた。
 (6)石燈籠  
 石つくりのものは全焼区域から外れると、傷つきながらもそのまま残っていることが多い。ここの石灯籠、手水鉢ももそうだ。
左の写真は2003年11月19日撮影。