3.尾長天満宮   (東区山根町33−16)
 
   国前寺に向かってすぐ左上が尾長天満宮。ここは、爆心から2.6キロ。山根地区は、家屋全壊というのは少ないが、屋根やガラス窓は吹き飛び、家の中はメチャメチャになって足の踏み場もない状態であった。そこへ、国民義勇隊として市内に建物疎開に出た人が、形相全く変わり果て、帰ってきた。そこへ、市内爆心地近くから「水、水」と言って叫びながら逃れて来た避難者の群れ。今度は、松本商業から尾長国民学校まで燃え広がりだした火災。これらの、被災者の救護や火災の防火は、人手が無い中で、老人や、女、子供達の手で必死になってなされたという。この下に救護所がもうけられた。天神様の所へ行けば、傷の手当てをして貰えると聞いた被災者達は、長い行列をなし、順番を待っている間にも、次々と息たえる人が多く、無残な死体が増加していったという。ここの被爆建物・遺跡を紹介する。 

写真はいずれも2003年11月19日撮影。
 (1)隨神門  
 1640年に建立されたもので、1925年の豪雨災害にも流失をまぬがれ、昔の面影をそのまま残している。原爆によって根は飛び、内部は荒廃したが、信者の協力によって1947年復元され今日に至っている。木造入母屋造り、瓦葺。
 (2)灯籠 狛犬  
                
 隨神門の前に、変色した鳥居、狛犬、石灯籠がある。石灯籠には明治十四年四月、吉田富村西連中という字が刻んであるのが読める。いずれも原爆に耐えた物である。
 (3)  
  原爆によって破壊、つぶされたが、幸いに火災をまぬがれ現在に至っている。崩れた屋根は復元され、支柱その他を使用し、つぎはぎながら昔日の姿を再現している。
 木造切妻造り瓦葺き。
 被爆者の証言「東練兵場に避難していたとき、天神様のところで傷の手当てをしてくれると聞き、母に背負われて行きました。治療所についてみると、私どころではなく沢山の大けがをした人、全身やけどをした人がいっぱいいました。私のけがは、なかなか手当てをして貰えず、そのうち医者は6時にそこを引き上げると言われるので、無理を頼んでやっと手当てをしてもらいまいた。」
 (4)拝殿  
 
 (5)本殿   
  尾長天満宮は、菅原道真が左遷され九州太宰府に向かう途中、当時海辺であった尾長山麓に船をよせ山に登って休息したという史実から、1640年浅野長晟に京から招かれていた連歌師松尾忠正なる人が願主となって、山中にあった小祠を移し、現在地に建立したものという。
 本殿、拝殿は1925年の豪雨災害によって流失し、昔日の面影はない。その後、仮設的に建立されたりしたが、老巧化し、現在のものは、1935年饒津神社境内にあった、招魂社を移設したもの。原爆により屋根は吹き飛び、内部も窓や建具類を含めて破壊された。1947年氏子によって復元され、現在に至る。いずれも木造入母屋造り瓦葺。 被爆者にとって、救護所から約百メートルの坂道を登った位置にあるこの天満宮境内まで、たどり着く元気があったのか、境内における被災者の惨状については不明である。
 かっては戦争遂行のための練兵場であったこの廻りは、原爆による犠牲者の避難場所と変わり、凄惨な戦争犠牲者の終焉の地となった。