4.広島東照宮 (東区二葉の里二丁目1−18) | |
2006年?以降、ここに建っていたJR社宅が壊され、2008年、広島駅新幹線口から北に、広大な空地の向こうにこの東照宮が見えている。あたかも被爆当時の東練兵場から望んだらこうだったろうかな!という姿を想起させてくれている。(原民喜が「夏の花」の冒頭で描いた東練兵場……若干東だが……、被爆翌日泊まった東照宮を想起させるショット(2007年11月18日撮影)を紹介しておこう。中央のクレーンの向こうに階段が見えるところが広島東照宮。 国前寺から尾長天満宮、広島東照宮、鶴羽根神社、饒津神社へ至る歩道には歴史の散歩道と書いてある。東照宮の裏には金光稲荷神社もある。いずれも古い歴史を持った寺、神社で、被爆遺跡・建物を持っている。それぞれ、広島駅北口(新幹線口)から歩いて10分程度の距離だが、一つ一つ回れば結構時間が掛かる。被爆の惨状跡を尋ねるのなら、国前寺の方、軍都広島・皇国日本の跡に興味ある方には饒津神社の方を薦める。饒津神社には戦捷碑まである。真ん中の東照宮は、二つの要素を弱めた形で併せ持っている。 東照宮は、名前からわかるように徳川家康をまつるもので、1648年家康の三女振姫を生母とする二代広島藩主浅野光晟によって二葉山麓に造営されたものである。 |
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(1)唐門と翼廊 | |
爆心から2千百メートル。原爆により神殿、幣殿、拝殿は崩壊、焼失したが、唐門、翼廊、本地堂等、ここにあげる物は、崩壊をまぬがれ、たまたま翼廊に駐屯中の第二総軍司令部の通信隊員約20名の消火活動により、類焼をまぬがれたものである。
1646年建立。原爆により屋根は吹きとび瓦は剥脱、建物も傾斜、大破、荒廃したが、類焼は免れ、1951年までに復元工事が行われ、昔日の面影を再現している。 広島市指定重要文化財、木造、瓦葺き。 2011年11月20日撮影。 |
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(2)本地堂 |
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1648年建立。原爆により屋根は吹きとび瓦は剥脱、建物も大破、荒廃したが、類焼はまぬがれた。その後、補修工事を行った後、1984年2月に解体復元工事が完了した。 室内には、重さ1トンといわれる神輿が安置され、昔日の面影を偲ばせる。木造宝形造り、瓦葺き。 「広島市指定重要文化財 東照宮本地堂(ほんちどう) 江戸初期、慶安元年(一六四八)の造営 当初徳川家康公の本地仏(ほんちぶつ)である薬師如来(やくしにょらい)が祀られていたが明治以降は神輿舎(みこししゃ)に転用した。 今では数少ない神仏混合時代の遺構 「総朱漆(うるし)塗り」「四方の中備(なかそなえ)に極彩色(ごくさいしき)の蛙股(かえるまた)を置く」などが特徴(みどころ)である。 昭和五十九年三月修理漆塗装(うるしとそう)し当時の姿に復元す 堂中には大神輿(みこし)(重文)あり」 広島東照宮」 |
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「唐門及び翼廊『平成の大改修』とある説明板が建っています。 日付は平成24年(2012)5月吉日とあります。追って文章は紹介します。 |
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本堂の裏に、「原爆ゆかりの赤松」というのが立てられていました. | |
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
(3) 御供所と脇門 | |
1648年建立。原爆により屋根は飛び、瓦は剥脱し、家屋は大破したが、類焼をまぬがれた。1951年までに補修復元工事が行われ、現在に至っている。 木造入母屋造り、瓦葺き。 神に供える神撰(しんせん)を調えるところ 内部は四室に区切られ東北の間には一間四方の上段の間(じょうだんのま)(調理した供物の仮置の間)がある。 原爆五十周年記念事業として広島市の補助により又東照宮創建三百五十周年記念として解体修理する。 2003年11月9日撮影 |
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(4)手水舎 | |
1648年に建立。原爆により大破、傾斜し荒廃したが、類焼はまぬがれた。1951年までに補修をしたが、1979年12月に解体復元工事が完了した。石灯籠には文化十三年丙子十一月十七日の日付けが読み取れる。 市指定重要文化財、木造切妻造り、瓦葺き。 2011年11月20日撮影。 |
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右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
被爆当日、境内は市内から押し寄せる被災者で大混雑をきわめた。急遽救援に駆けつけた陸海軍救護隊や郡部医師会派遣の医療救護班などによって、救護所が鳥居下にテントを張って開設され、治療活動が始められた。悲惨な姿で集まってくる被災者は、バタバタ倒れていき、石段下の広場は足の踏み場もない状態で、水を求め、肉親の名を呼び、痛みに呻き、人の区別さえ判らないまま、暑い日差しの中で次々と苦しみ悶えながら息たえていった。ある被爆者は、ここへ逃げる途中、水が欲しくてたまらなくなり、悲惨な姿で倒れ呻き続けている学生、全身ふくれあがり恐ろしい形相で死んでいた兵隊の前のドブ川の水を手にすくって飲んだが、その時の、うまかった水の味は今に忘れない、と言っている。 別の被爆者は、神社の石段下まで行った時、東照宮の本殿、拝殿が火災炎上中で火の粉が降り注いで近ずけず、山腹に掘っていた防空壕まで避難したが、すでに防空壕は満員で、その前には無残な姿の被爆者の死体が転がっており、悲惨な状況を呈していたという。 2003年11月19日撮影。 |
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(5)山門 (東区二葉の里二丁目1−18) | |
山門からずらりと、石灯籠が並んでいるが、焼け跡だけではなしに、欠けた部分の多いのに気づく。これらは、原爆による爆風で飛んできた飛散物によって破損したものという。 爆心から2キロ離れた所でこれだけの被害があったことは、原爆の凄まじさを今に示ている。 2003年11月9日撮影 |
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右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
(6)広島東照宮 二葉の里慰霊塔 | |
神社の境内に、原爆ゆかりの慰霊碑があるのは珍しい。唐門と翼廊への石段の上り口、左に建っている。火に追われ水を求め、ここにたどり着き死亡した人々の霊を慰める。ここの社司夫妻も、即死こそ免れたものの、半年足らずの間に相次いで亡くなられた。このあたりには、山裾に沿って流れるきれいな湧き水があって、息絶えた人の死水ともなった。当時の惨状を知る宮司の久保田幸重氏が、1966年8月5日建立された。 裏の碑文 「昭和二十年八月六日の原爆により罹災者境内に溢れ救護所を設ける。偶境内に沸井在り この清水を飲みて 幽明異にする物多し 是に哀愁の情に堪えず 茲に慰霊碑を改建して永く哀史を傳えん 昭和四十一年八月五日 広島東照宮宮司 久保田幸重誌」 右は「衆議院議員 砂原 格 浄書」とある。 2011年11月20日撮影。 |
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右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
広島東照宮 石段の反対側に、裏の金光稲荷神社の門柱が2本並んでいる。2つとも真ん中で折れた跡がある。 東練兵場には、7、8ケ所の、仮の火葬場ができ、毎日、毎日死体処理の煙が9月初めまで続いていたという。とりわけ、東練兵場の荒地を開墾し、食糧増産のために動員されていて被爆した商業高校の1、2年生の犠牲者が多く、涙をさそったという。 (東照宮内説明文) |
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(7)広島東照宮の玉垣 | |
唯一、原爆慰霊碑のある神社、広島東照宮に95年、平和を願う歌の刻まれた玉垣が設置された。 (1995年7月1日 読売新聞記事) 「あの日」伝える三十一文字 平和の祈り込め玉垣 広島東照宮 ヒロシマの心を刻んだ玉垣(写真) 被爆五十年に合わせて、被爆者らが詠んだ短歌の刻まれた玉垣が、広島市東区二葉の里二の広島東照宮(窪田訓章宮司)参道に設置され、完工式が行われた。原爆投下直後の惨状や平和を願う気持ちをつづった三十一文字が並び、「ヒロシマの心」を伝える。 玉垣設置は93年、古里の文化の復興に取り組む市民グループ「広島の文化を伝える会」の宇野栄会長(56)が、被爆の悲惨さを伝える方法を模索。顔見知りの久保田宮司が玉垣の設置を申し出たため、短歌を刻むことを思いついた。宇野会長は県歌人協会に協力を呼び掛け、同協会員に短歌五十首の創作を依頼し、15センチ角で高さ1メートルの御影石二十五基に二首ずつ刻んだ。 被爆当時のつらさを「げんばくの焔の仲にも焼けざりし我の命の仮初めならじ」と表現したり、「原爆病院を出ずる柩を見送れる老いの眼ひそと窓々にあり」と五十年の歳月を振り返ったりする短歌も。「戦のなき半世紀よ本川の河畔歩めば鳩の群れ飛ぶ」と平和の尊さをかみしめる被爆者もいる。 宇野会長は「東照宮は市の指定した「歴史の散歩道」にあり、訪れた人が目に入った歌で、戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを感じてほしい」と話した。 2003年11月19日撮影。 |
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(8)原民喜追憶碑 | |
2010年夏に、ここを終着点とするフィールドワーク「原民喜の『夏の花』を歩く」に合わせるかのごとく建立された。フィールドワークでは最後にここの久保田訓章宮司にお話を聞いている。 コハ今後生キノビテコノ有様ヲ ツタエヨト天ノ命ナランカ 原 民喜 平成二十二年八月六日 広島市長 秋葉忠利 書 2011年11月20日撮影。 |
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右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて。 | |
原爆被災時のノート (前略) 東照宮ノ欄間ノ彫刻モ石段 ノ下ニ落チ、燈籠ノ石モ倒レルアリ。 隣ノ男 食ヤ水ヲ求ム。タグレトナリバ 侘シ。女子商ノ生徒シキリト水ヲ 求ム。夜ハ寒々トシテ臥セ ル地面ハ固シ。翌朝目ザメテ肩凝ル。 (中略) 石段下ノ涼シキトコロニ、一人 イコフ。我ハ奇跡的ニ無傷 ナリシモ、コハ今後生キノビテ コノ有様をツタヘヨト天ノ命 ナランカ。 (後略) 五年後 原 民喜 竜ノ彫刻モ 高いイ石段カラ割レテ 堕チ 石段ワキノ チョロチョロ水ヲ ニンゲンハ来テハノム 炎天ノ溝ヤ樹ノ根ニ 黒クナッタママシンデイル 死骸ニトリマカレ シンデユク ハヤサ 鳥居ノ下デ 火ノツイタヨウニ ナキワメク真紅ナ女 |
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(裏追悼碑文) あの日から数日後、旧制中学一年生の農村動員先八本松町から、貨物列車で広島駅に着くと、あたり一帯瓦礫の熱気と異臭でくらつく思いであった。駅前松原通りから東練兵場に入ると、桜の馬場の旧古川跡に兵士の黒い死骸二体が並んで肉親を待つ。石鳥居の下には救護所があった。 湧水滴る石段下の木陰で、避難者が二十人余り頭を西に横たわり、水を求めた。 「海ゆかば・・・」と歌いながら死に行く白いシャツ、もんぺ姿の女学校一年生−。 あれから六十五年のいま、「歴史はつねに反復する」ことなきよう、詩人のことばをしるし、揮毫を石にきざみ、心のうちに問い来た独白をもって祈りとしたい。
日 神 温めたまはず、恨みたまはず、皆平なる心を以て容したまふ。 日本書紀 平成二十二(二〇一〇)年八月六日 広島東照宮 宮司 久保田 訓章 |
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