7.饒津(にぎつ)神社 (東区二葉の里二丁目6−48) 
 

 饒津神社は、幕末の1835年、浅野9代藩主が混乱期において勢威を示そうとして、藩祖長政を祀るものとして造営された神社。その点、天皇家を神と祀る他の多くの神社とは一寸趣が違う。何があるか紹介しよう。饒津神社は、幕末の1835年、浅野9代藩主が混乱期において勢威を示そうとして、藩祖長政を祀るものとして造営された神社。その点、天皇家を祀る他の神社とは趣が違う。

 爆心から約1700メートルのこの神社は、建物は全焼しているが、石の被爆遺跡が数多くあり、そこから被爆の惨状を伺うと共に、広島の歴史をかいま見る事が出来る。

 まず、門が、戦後建てられたと思われる白い鳥居を除いて、3つ。饒津神社と記された正門は、昭和十五年十一月長勲公命合祀記念広島市とある。古いのは奉献門、明治四十三年五月 日進社員有志建立とある。右に更に古い門柱があり、明治二十七年と刻まれています。そこから内側にずらりと石灯籠が並んでいる。新しい白い鳥居の前には狛犬がある。石灯籠、狛犬とも傷つき、焼け跡が痛々しい。

   
 (1)石門 灯籠   
   まず、門が、戦後建てられたと思われる白い鳥居を除いて、3つ。饒津神社と記された正門は、昭和十五年十一月長勲公命合祀記念広島市とある。古いのは奉献門、明治四十三年五月 日進社員有志建立とある。右に更に古い門柱があり、明治二十七年と刻まれている。そこから内側にずらりと石灯籠が並んでいる。新しい白い鳥居の前には狛犬がある。石灯籠、狛犬とも傷つき、焼け跡が痛々しい。そこまでの間に「注連石」というのがある。献備者の名が刻まれ、明治四十三年庚戍五月頼弥次郎謹選とある。それから更に右奥に区画整理碑がある。昭和十三年九月佐伯郡小泉甚右衛門の名がある。広島市の西部、草津村庚午新開は元佐伯郡、その庚午新開を明治3年に行って大地主となったのが小泉甚右衛門。 昭和13年の都市計画の区画整理地区に編入されたのを記念して「小泉甚右衛門」の功績を讃えるために建てられたものだろう。

写真は2011年11月20日撮影。
 (2)慓縄柱銘并序    
 

饒津神社に入ってすぐ右に青みがかった碑があります。明治四十三年に神社の浅野家を讃えて建てられたものでしょう。爆心から約1700メートルの全焼地域です。
   「饒津神社 藝藩祖父淺野長晟公者長政公公補佐豊太閤 同進社 今茲庚
   庁公三百年祭社中相謀新建 」明治四十三年庚戌5月 頼弥次郎謹書
   裏 注連石獻備者芳名 関本義行等522名の名前 外576名
                           發起者 同進社組合四十名」

左の説明板

「標縄柱(しめなわばしら)銘井序

明治四十三年(一九一〇)五月十五日より二十六日までの十二日間に亘り行われた御祭神浅野長政公三百年祭に、旧広島藩縁(ゆかり)の同進社より奉納されたもの。」

写真は2011年11月20日撮影。
   
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて  
 (3)臨時陸軍檢疫部職員死者追悼之碑     
   

饒津神社に入ってすぐ右に同型の青みがかった「慓縄柱銘并序」と書かれた碑(明治四十三年に神社の浅野家を讃えて建てられたものだろう。)があるが、その奥にある。

新しく説明板が立てられてある。

「陸軍検疫部職員死者追悼ノ碑

陸軍検疫所は、日清戦争帰還兵を介して伝染病の国内侵入を防止する目的で明治二十八年(一八八五)似島に開設された。

のちに広島検疫所と改名。

船舶六八二隻二三二、三四六名の検疫を行った。

この検疫業務で五十三名の職員が病気等に感染して死亡、追悼碑にその氏名を刻み功績を称えた。」とある。

碑に書かれた文字を直接読み解いてみました。

(表) 遠征ノ師アレハ惡疫ノ之ニ随フコトハ古今の戰史ニ徴シテ明カナリ故に師ノ將ニ凱  旋セントスルニ先タチ檢疫部ヲ設ケ以テ惨毒ヲ豫防スルハ軍國ノ一大要務トス尚モ然ラスンハ縦令捷ヲ外ニ制スルモ病ニ内ニ勝つことは能ハスシテ或ハ病死者ヲシテ戰死者の數ヨリモ多カラシムルニ至ル察セサル可ケンヤ明治二十七八年戰役ノ終リニ於テ我陸軍ハ豫メ臨時檢疫部ヲ組織シ似島彦島櫻島ニ檢疫所を行ハシメタリキ其數船舶六百八十七隻人員二十三萬二千三百四十六名物品九十三万二千六百七十二點ノ多キ上レリ是ニ於テ我軍國檢疫ヲ達シ全局ノ大功ヲ収メタリ寔ニ萬古未曾有ノ盛事ト云フヘシ鳴呼檢疫に從軍スルノ諸氏ハ一身ヲ以テ犠牲ニ供シ一百餘日ノ久シキ毫モ倦怠ノ色ナク遂ニ惡疫ヲシテ豫期ノ如ク甚シキニ至ラシメスヘシテ止ム其功實ニ偉大ナリトス就中陸軍歩兵少尉広田伸頼君以下五十有三名ノ如キハ檢疫中病毒ニ感染し以テ其命ヲセリ洵ニ其功績ハ陸軍檢疫部の偉業と共ニ湮滅ス可ラサルナリ乃ナ同志ノ賛助ヲ得テ之ヲ石に勒シ以て後世に傳フコト云爾

明治二十八年十月三十一日

臨時陸軍檢疫部長 陸軍少將 正四位勲二等功三級 男爵 兒玉源太郎識

(裏) 檢疫ニ從事   病歿セル諸君ノ官職併ニ人名  島臨時陸軍檢疫 所  櫻島臨時陸軍檢疫所

 陸軍歩兵少尉  広田伸頼  陸軍歩兵二等卒 太田熊吉外1名  陸軍歩兵一等軍曹 吉竹吉次外3名   陸軍看病人 横山力衞外1名  陸軍看病人   野崎賢二郎外1名 常用人夫  中牟田福松外1名

似島臨時陸軍檢疫所  陸軍歩兵一等卒 中川圭次郎外12名  陸軍看病人 神崎寅吉外2名  臨時傭 平山茂樹 小  船長 中井楠亀外1名 人夫  藤江松太郎外7名  舸子 神谷藤吉 常用人夫 小原宇吉外11名

 ※ 建立年月日 明治28年10月31日

 ※ 建立の由来 日清戦争が終り、外地から帰国する従軍者のために、臨時の検疫所を似島に設けた。3ケ月に232,346名932,672点もの検疫をした。その館、53名が病気に感染して死亡した。日本に病気等を入らせなかった業績は偉大なるものとして後世に伝えるため碑が作られた。碑の裏面には、53名を刻す。

 ※ その他,特記事項 碑の裏面には、カキ殻が付着している。  碑文は兒玉源太郎(当時海軍少将男爵)

筆者 注 「彦島」は山口県、「櫻島」は大阪府

写真は2012年5月13日撮影。

   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて  
 (4)北清事変忠死者紀年之碑  
   

門から入って左手の道路際に立っている。六角形をしている 

表 明治三十三年北清事變忠死者記念碑  

(左) 明治三十四年七月十三日建之陸軍歩兵大佐從五勲三等功四級粟屋幹書

(右) 歩兵第十一聨隊

裏 (右) 歩兵一等卒 中川喜六 古田小市 植木光治郎 等76名

   (中) 陸軍歩兵少佐 服部尚 同大尉 古澤正治 等5名  陸軍歩兵少尉 國枝熊雄等6名 陸軍歩兵曹長 大歳健治 等14名  陸軍歩兵伍長 掛江眞二郎等14名 上等兵 水戸方松等15名の名   

      (左) 陸軍歩兵歩兵一等卒 平野多治郎 第一補充兵 山口県崎喜一等98名の名

 ※ 建立年月日 明治34年7月13日

 ※ 建立の由来

北清事変に出征した、歩兵第11連隊の戦死者の氏名を刻す。この碑は、戦死戦病没者の霊を弔いかつ記念するために建立されたものである。

 ※ その他、特記事項  碑文は、陸軍歩兵大佐粟屋幹。

 北清事変というのは、「義和団の乱」に対する列強干渉戦争のこと。

説明板

「北清事變忠死者紀年之碑

明治三十二年(一八八九)より明治三十三年に列強の進出に抗した中国民衆の外国人排斥運動(義和団事件)に対し日・英・露・独・仏・伊・墺の八カ国は連合軍を組織してこれを鎮定(日本では北清事変と呼称)。

広島市に拠点を置く歩兵第十一連隊はその一翼を担い出兵。

二三八名の戦死者名を刻字し、慰霊・追悼し、顕彰した。

写真は2012年5月13日撮影。

 (5)被爆樹マツの切り株  
 

説明板

「被爆樹木 マツ

爆心から1,720m

このマツは、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、生き残りました。」

 最後まで境内に残っていた松は、2003年1月に枯れてしまった。このように切り株で保存することになり11月17日に保存工事終了の奉告祭が営まれました。切り株は高さ1メートル、直径0.7メートル。雨よけのため、被爆松を使った上屋(高さ2.5メートル、幅約3メートル、奥行き約2メートル)が設置された。

 社殿は全焼したが、十数本の松は生き延びた。その後、次々と枯れ、保存された松だけが残っていた。樹齢は推定約170年。衰えが見え始めた2002年秋、「松は神社のシンボル。何とか残したい」と、保存されたもの。  

写真は011年11月20日撮影。
   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて  
 (6)坂井虎山先生之碑   
   

「虎山坂井先生之碑」とある。名前と姓が逆になっています。(以下も)理由は判りません。 表 うすい漢字の羅列で読み切れません。
 左 右  なし
 裏 明治十六年葵未三月故 門人建之 石工 (読めません)
  「新修広島市史」によると、父は朱子学者・坂井積(通称孫三郎)で、坂井東派と号し、坂井華(1798〜1850)の通称で、はじめ文学を好み、のち藩校に入って儒学に関する学識を深め、文政八年(1825)藩校教授に任じられた。天保八年(1837)江戸藩邸の講学所の教授として東上したとき斉藤拙堂らの諸学者と交わり文名をはせた。広島に帰った後も文運の中心として、諸国の名士の訪れるものが多かった、とあります。その著に「杞国策」・「論語講義」・「詩文集」があります。大正五年(1916)正五位を追贈された、とも。頼山陽に継ぐ詩人で、速吟をうたわれたいいます。

新しい説明板にはこうあります。

「虎山坂井(こざんさかい)先生之碑

寛政十年(一七九八)〜嘉永三年(一八五〇)九月六日、五三歳。
広島藩の儒学者。名は公実、諱(いみな)は華。通称百太郎、臥虎山人・虎山などと号す。幼少のころから勉学に励み、文政八年(一八二五)には藩学教授となり、別に五人扶持を賜った。

天保八年(一八三七)には江戸に上り、古賀侗庵、松崎慊堂、佐藤一斎らと交流し名声をはせた。

著書に『杞国策』『論語講義』がある。

墓は広島市中区小町の本照寺にある。この碑は門人らによって建てられた顕徳碑でその事蹟を伝えている。」
写真は011年11月20日撮影。

 (7)河野小石先生碑    
   

小石河野先生碑」となっている。自由民権運動にも名前が出てくる人物です。
 表 君諱微字文 と漢字の羅列で読むのに苦労しました。

   昭和己己十月從一位勲一等侯爵浅野長勲題字
 右 門人一同建之 工匠 高田音吉
 裏 左 なし
  「新修広島市史」によると、朱子学者(1823〜1895)で、商家の出身ながら  文久三年(1863)藩の儒員に任じられた。廃藩後は明治七年(1874)から広  島師範学校教師となったが、辞職後下流町の自邸において子弟を教育した。その学風ははじめ考証を主としたが、のち経学の論究に入り講説に長じた。著書としてみるべきものはなかったが、市内の名士との交際が多く対外的な活動が盛んであった。

右の新しい説明板にはこうあります。

「小石河野(しょうせきこうの)先生碑

文政六年(一八二三)九月〜明治二十八年(一八九五)一月二十三日。七十二歳。幕末・維新期の広島藩士。名は徴、字は文献、通称は金蔵、小石または視庵と号す。

十二歳のとき頼聿庵(らいいつあん)(父は頼山陽)に入門文久三年(一八六三)には藩儒となり、明治二年(一八六九)八月、浅野長勲の侍講となる。

墓は広島市中区小町の戒善寺にある。

写真は011年11月20日撮影。

   
               
 (8)桑宅木原翁之碑   
   

 「木原桑宅」(1818〜1881)というのが名前です。幕末の郷土の書家として 、知られており、明治十年代のなかばまで健筆をふるったといいます。
 表に縦に大きく名前があります。
 裏 うすい漢字の羅列で読み取れません。明治十年七月廣島縣河野謹撰
 右 石工の名前 はっきり読めません。

右の新しい説明板にはこうあります。

「桑宅木原(そうたくきはら)翁之碑

文化十三年(一八一六)二月三十日〜明治十四年(一八八一)八月二十五日、六十六歳。儒医。諱(いみな)は籍之、字(あざな)は君茅、桑宅は号、通称は慎斎、後、慎一郎と改める。晩年は燃白老人と号す。

はじめ医者として藩に仕えたが、文久二年(一八六二)儒官となり、学問所教授、供頭添役次席に進み、禄百石を給せられる。

墓は広島市東区山根町の瑞川寺(聖光寺)にある。この碑は門人らによって建てられたものである。」

写真は2011年11月20日撮影。
   
 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて  
 (9)区画整理碑   
    更に右奥に区画整理を記念する碑が二つあります。昭和十三年九月佐伯郡小泉甚右衛門の名があります。広島市の西部、草津村庚午新開は元佐伯郡、その庚午新開を明治3年に行って大地主となったのが小泉甚右衛門。昭和13年の都市計画の区画整理地区に編入されたのを記念して「小泉甚右衛門」の功績を讃えるために建てられたものでしょう。

 右が「神田換地反別七町三反五畝六歩」と刻まれ
   左に昭和十三年九月十四日
   裏に明治六年十一月佐伯郡総代小泉甚右衛門 広島市区画整理 とあります。
 左は「奉納 神田反別参町六畝五歩」
   右に明治六年十一月三日 裏は佐伯郡総代小泉甚右衛門 左はほとんど消えて読めない長い文章
 ちなみに小泉家は、明治天皇を泊めたりした大地主として、地元では今もその名を知らないものはないほどの、100年以上たった木造の古びた酒屋ですが、現当主は財産を守のに苦労されているようです。
写真は2011年11月20日撮影。

 (10)向唐門(むかいからもん)  
 説明板を読んでみる。向唐門

昭和二十年原爆で消失した旧向唐門の礎石の上に再建 龍の彫刻等細部を忠実に復元した(礎石は原爆当時のまま残した)

向唐門は格式上将軍や藩主を祀る神社に用いられた

なお当門は全国二番目の大きさである

平成十二年八月吉日再建 饒津神社」

写真は2012年5月13日撮影。
 (11)灯籠  説明板  手水鉢  
 

 傷ついた灯籠のそばに被爆当時のこのあたりの惨状を示す写真を添えた説明板がこのようにある。社殿などが跡型も無くなっている写真と現状を見比べるように立っている。 手水鉢も傷ついて痛々しい。さらに上には、浅野長勲を祀る記念碑などもある。

「饒津神社(爆心地から約1,800メートル)

原爆の炸裂による強烈な爆風のため、本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました。その直後本殿から出火し 他の建物も次々と延焼していきました

爆風により 境内の樹木は吹き倒され 参道の石燈籠も倒されました

境内には 燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて 臨時の救護所が設けられました

写真説明(建物がすべて焼け落ちた饒津神社 1945年8月20日 尾木正巳氏撮影)

写真は2011年11月20日撮影。
浅野長勲碑

 右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて
 
   
 石燈籠のほとんどは原爆で黒ずんでいる。

右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて
   
 石燈籠の中には原爆での割れ目を持ったものも多い。
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて
 
  手水鉢。

写真は2011年11月20日撮影。
   
  手水鉢と向唐門
右の写真は2013年9月28日のフィールドワークにて