1619年、浅野長晟が広島に入城した翌年に造られた庭園で中国の西湖を模して造られたためこの名がつきましたが、被爆者の手記などでは泉邸という名で出てきます。 爆心地から1.2〜1.4キロ。戦争中、避難場所に指定されていたため、原爆投下直後、おびただしい被災者が押し寄せました。しかし園内の森は燃えだし、迫り来る火災に、熱さのあまり前の川に飛び込んでそのまま死んでいく人、この中で次々と息を引きとっていく人、そしてここで死んだ人は荼毘にもふされずそのまま埋葬されたといいます。その後の発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、1988年3月19日、遺骨発掘地点に慰霊碑が建てられました。また園内には被爆1か月後の園内の写真の被爆の惨状を伝える説明板があります。ほとんどの人は観光目的で目もくれないが、ここを訪れた時には、この事にも是非注目してもらいたいものです。
左の石橋(跨虹橋)は、よく磨きこまれているので、被爆遺跡とはちょっと見えませんが、被爆直後の修羅場の舞台となった石橋です。
2013年4月3日撮影
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