11−1.縮景園                         ( 中区上幟町2)
   
   縮景園説明板

2013年4月3日撮影
   
 2013年4月3日撮影
   
 

1619年、浅野長晟が広島に入城した翌年に造られた庭園で中国の西湖を模して造られたためこの名がつきましたが、被爆者の手記などでは泉邸という名で出てきます。 爆心地から1.2〜1.4キロ。戦争中、避難場所に指定されていたため、原爆投下直後、おびただしい被災者が押し寄せました。しかし園内の森は燃えだし、迫り来る火災に、熱さのあまり前の川に飛び込んでそのまま死んでいく人、この中で次々と息を引きとっていく人、そしてここで死んだ人は荼毘にもふされずそのまま埋葬されたといいます。その後の発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、1988年3月19日、遺骨発掘地点に慰霊碑が建てられました。また園内には被爆1か月後の園内の写真の被爆の惨状を伝える説明板があります。ほとんどの人は観光目的で目もくれないが、ここを訪れた時には、この事にも是非注目してもらいたいものです。

左の石橋(跨虹橋)は、よく磨きこまれているので、被爆遺跡とはちょっと見えませんが、被爆直後の修羅場の舞台となった石橋です。

2013年4月3日撮影

   
 2013年4月3日撮影
   
 2013年4月3日撮影
   
 

また、焼け落ちた縮景園の森の中でも、何本かの樹木は生き残りました。その代表として、園内案内にも載っており説明板が添えられているのが、このイチョウです。説明文には、こう書いてあります。

 「大銀杏(おおいちょう)
このイチョウは、昭和20年(1945)八月六日原爆投下後の火災から生き残った木の一本です。幹回りは約四メートル、木の高さは約十七メートルで樹齢は推定二百年以上と言われています。爆風で傾いたため倒れないようにと梢や枝を切り払っています。


2013年4月3日撮影
 
 2013年4月3日撮影
   
 縮景園原爆慰霊碑

なお原爆慰霊碑もあります。切符売り場で聞けばわかります。  これも碑文を紹介しておきます。

慰霊碑  一枚の写真を手がかりに、昭和62年(1987)7月31日この地に埋葬されていた原爆死没者の御遺体ウを発見、六十四体の御遺骨を発掘しました。御遺骨は同年八月六日平和記念公園内の原爆供養塔に納骨されました。」

2013年4月3日撮影