22.工兵橋と工兵第五聨隊慰霊碑   (中区白島北町1・安田学園北京橋川及び公園内)
   
 

その名もずばり、工兵第五聯隊跡(安田学園)の北に架かっている橋が工兵橋。

写真は2012年5月27日撮影。
   
 

説明板にはこうある。

工兵橋(爆心地から約2.3キロメートル)

工兵橋は、白島の陸軍工兵第五連隊(現在の安田学園の位置)と牛田の演習場を結ぶため、1933(昭和8)年に架けられました。原爆によって白島地区は、この工兵隊付近を除いて全焼しましたが、この橋は損傷が少なかったため、おおぜいの被爆者が渡って避難していきました。

写真(多くの被爆者が渡った工兵橋 1945(昭和20)年11月頃 米軍撮影)」

写真は2012年5月27日撮影。
   
 

 

 

その工兵橋のたもと、安田学園外の北の公園内に、比治山陸軍墓地奉賛会ゆかりの人達の手により1982年11月にこの慰霊碑は建てられたという。

 表に工兵第五聨体跡地とあり、裏には工兵第十一聨隊、工兵第三十九聨隊、船舶工兵部隊と刻まれている。工兵補充隊(被爆時の現地駐屯隊の名前)の原爆死没者は47人が確認されている。

兵士全体の原爆死没者は1万5千人ぐらいと推定されている。加害と被害の両方の当事者であった、被爆死した兵士達。護国神社では「偉業を讃える」形で慰霊されている。しかし、兵士達の墓を守りしている、90歳近いという奉賛会の老人は、どのようにして戦死、被爆死した兵士達を弔えば良いのか、戸惑っておられるような口ぶりであった。戦友会などでは、残虐行為が手柄話のように話されるという。しかし、又、2度とあのような事にしてはいけないと心に刻んでいる老齢化した元兵士も多い。

写真は2012年5月27日撮影。

   
 右の写真は2001年2月11日撮影。