56.輜重兵第五聯隊・馬碑  (中区基町4番・中央公園ファミリープール北西) 
   

表に「馬碑」下に「輜重兵第五聯隊 隊跡 馬碑」とあります。

 ここは輜重兵第五聨隊があった所で、その跡の馬碑です(中区基町・空鞘橋東南詰め)。裏には「昭和三年秋十一月建之」と刻まれています。輜重兵(しちょうへい)とは、軍需物資、食糧等の輸送にあたる兵士をいいます。ここにそのままあった物とは思われませんが、この近くで被爆した遺跡でもあります。ひろしま美術館裏の広島城側の歩道をそのまま西へ空鞘橋まで歩いて行けば左手に見えます。(2007年3月22日中国新聞、由来と説明板の設置を報道) 左に設置された説明板の文章を下に掲載します。

 
   
              
   

(輜重兵第五聯隊部隊跡馬碑 説明板)

馬碑の由来

昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵舎西南太田川沿いに建立された。

昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。

その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。

昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。軍馬は日本各地より挑発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
 戦場に於いて、四肢の蹄に哲をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
 蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、次の休止時に予備鉄を装着した。
 戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷やし看病し続けた。兵にとって馬はまさに戦友であった。
 数字の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。

初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやってくる!」と古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章にある星の数で見分けられるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
 尚、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、戦友の浄財と靖国神社の助成に拠り、付帯施設を新設した。

平成十八年
元中支派遣   第三九師団輜重隊
      第百三十二師団輜重隊

有富部隊戦友会