「.頼山陽」(1780〜1832)と聞いても他地方の人にはピンと来ないと思われます。明治維新の時、広島の浅野藩はお隣の長州藩に比べて、日和っていたため、軍都であるにもかかわらず郷土の先人に誇るべき人がほとんどいませんでした、そこで、よくぞ探しだしたのが「頼山陽」、袋町の自宅に幽閉中「日本外史」を書いて尊皇思 想の先駆けとなり後の倒幕運動に影響を与えた人物です。皇国日本の思想で民衆を統制しようとしていた戦前、広島の唯一の誇りででした。居室は原爆で全焼、1956年復元されていますが、1935年頼山陽博物館として鉄筋二階建として建設されたこの建物は、日本銀行の陰にもあたり辛うじて1993年まで生き延びてきました。が、ついに広島県教育委員会より、1993年被爆樹クロガネモチと、門、塀、テラコッタを残して解体、1995年5月、居室・庭園に続き記念館(資料館)が公開されました。さすが、彼の「尊王攘夷」思想が戦前のように派手には宣伝されてはいませんが。
被爆建物であるという事が考慮されたのは門のところと手すりであったテラコッタ(下)、被爆樹クロガネモチぐらいです。終身地竹原で展示されるのは判りますが、広島でわざわざお金をかけて新装保存公開するというほどの価値があるのでしょうか。戦前の皇国日本の思想的背景となった人物です。1941年太平洋戦争の前、5月27日にはここで大和報国運動広島県本部の結成大会が開かれています。「戦争が出来る普通の国家」になろうとする現在の政治状況では、単なる歴史ならいいのですが、「新しい教科書を作る会」等、又再び尊皇思想が持ち出されて来る動きもている現在、そのような動きに利用される恐れも無しとは言えません。徐々にその尊皇思想も讃えられる事になって行くでしょう。軍都広島の結果を示すために朽ちるに任せるべきではなかったのでしょうか。
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