13.広島袋町小平和資料館   (中区袋町8番)
   

 長らく被爆建物として残っていた爆心の小学校、袋町小学校西校舎が1999年、ついに取り壊しが決まり、教育委員会が調査したところ漆喰(しっくい)の壁の中から「生死不明 オ知ラセヲ」とか、様々な伝言が塗りこめられているのが発見されました。

そして、2002年4月12日「資料館」としてオープンしました。このあたり「旧日銀広島支店」が広島市に渡されてから行事ごとに入れることもありますし、こことともに繁華街の真ん中に数年前までは想像出来なかったほど、被爆建物・モニュメントが整備されて来ました。「千羽鶴フェンス設置」等市政がなかなか思うようにならない秋葉市長の「平和」への執念が感じられます。場所が場所だけに市民も旅行者も仕事や買い物、観光のついでにも是非立ち寄られんことをお勧めします。外のレリーフ石板は「袋町国民学校(爆心から500メートル)鉄筋コンクリート3階建ての校舎は原子爆弾により外形だけを残して焼失した。学童疎開をしないで残っていた児童が朝礼直後に被爆した。この学校の犠牲者はおよそ300人にのぼった。(窓にむしろをささげて救護所に使われている校舎 1945年10月8日 菊池俊吉氏撮影)とあり、被爆伝言板が発見される前1995年ごろ建てられたものです。

当施設は。被爆建物である袋町小学校西校舎の一部を平和資料館として保存したものです。被爆直後、救護所として利用された時に書き残された被爆者の消息を知らせる伝言など、当時の様子を伝える貴重な資料を展示しています。」(表の説明板)
2002年4月20日撮影
   
 開館当初は、プライバシー・著作権・保存の問題で写真撮影一切禁止ということで、外から撮影するしかありませんでしたが、翌年子ども達を案内したところ、プライバシーや著作権に触れない限り構わない、ということで、右の写真のように伝言板前で説明までして頂いています。地下室に入ってまず、下の写真のように説明ビデオを見、それから室内の遺品、説明等をみたあと、最後にこのように説明をして貰えばよくわかります。
 

壁面に刻まれたヒロシマの証言
爆心地から460bの位置にある袋町小がこうは、原爆に大きな被害を受けました。当時、多くの自動は疎開により被災を免れましたが、残っていた児童のほとんどが一瞬にして命を失いました。木造校舎は全て倒壊し、唯一鉄筋コンクリートだった西校舎内だけが外郭のみ原型をとどめました。
被爆直後から被災者の救護所として利用された西校舎内の壁面には、被爆者の消息を知らせる「伝言」が数多く記され、現在も残っています。
当資料館では、被爆建物として西校舎の一部を保存し、「伝言」をはじめ袋町小学校に残された貴重な被爆資料を展示するとともに、被爆直後の学校の様子を紹介しています。
」(パンフレットより)

なお詳しく知りたい方は、中国新聞ホームページに1999年7月5日から11日まで「伝言板再び」という6回シリーズ記事がまだ読めますので是非クリックして下さい

2008年12月26日撮影
   
   

2008年12月26日撮影
   
 2008年12月26日撮影
   
 2005年12月24日撮影

2004年10月2日、この正面右の校庭内空地ににマルセル・ジュノー博士の顕彰碑が設置され、周辺は「ジュノー広場」と命名されています。また、2006年11月8日、開館以来の入館者が10万人に達したと報じられています。(翌日、中国新聞。)

なお開館日、時間等は袋町小学校平和資料館のホームページで確認を。

   
 右の写真は2012年4月14日撮影、階段が千羽鶴で埋め尽くされていました。