22.移動演劇さくら隊殉難碑  (中区小町・平和大通り緑地帯)
   
 

百メートル道路を、電車通りから左の歩道を比治山方面に歩いて行くと、右に大きな医師医療従事者原爆殉難碑が見えます。その反対側につつましく立っています。移動演劇さくら隊丸山定夫隊長ら、9人の名が刻まれています。第1回原水禁世界大会が広島で開催された1955年、徳川無声ら新劇人の手により建てられました。

1941年日本移動演劇聨盟という組織が時の内閣情報局の手で結成され、反体制的傾向があると当局から目をつけられていた新劇人もこの中に組織され、さくら隊は1945年1月に結成され、戦争で疲れた人々を励まし、軍隊慰問の任を与えられたりしていました。 3月の東京大空襲のあと、6月に広島に疎開、中国地方を巡演していました。そして現在の福屋裏の宿舎で被爆、5人が即死、なんとか逃げだした4人も、のち死亡しました。さくら隊殉難の模様については、映画や本にもなっています。

なお、34歳で被爆、東京で死亡、初の「原子爆弾症」と診断され、遺体が解剖された、女優、仲みどりさん。その遺体の一部が広島大原爆放射線研究所に、1973年に帰って保管されていることが2003年7月、広島平和記念資料館の調査で判明しています。東京、アメリカ、広島とバラバラにされ転々としていたとは。仲さんの悲劇に改めて合掌!

2005年6月19日撮影。

   
 (碑文)

移動演劇さくら隊原爆殉難碑の由来 (碑文)

 広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951年(昭和26年8月)中国新聞社芸能記者の人達によって「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立された。それから4年後の1955年(昭和30年)8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられた。建設に当たっては徳川夢声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、1959年(昭和34年)8月、6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって建立された。

碑の「桜隊」の「桜」が「さくら」と仮名文字で彫られているのは、占領下のもとであったため漢字の「桜」は使用出来なかった。

2000年8月 広島市民劇場

2002年5月11日撮影