24.三川町町民慰霊碑(子まもり地蔵尊)と新本家地蔵尊 (中区三川町8−14・円隆寺)
   

中央通りの百メートル通りの「,お好み村」近くの左手に、広島の祭り「とうかさん」と書かれた寺があります。円隆寺です。戦時中、学校は兵舎に転用され、子供達は寺などに分散して皇国民教育にいそしんでいました。この寺にいた25人の子も被爆、倒壊した建物の下敷きとなり最後をとげました。後に住職が供養のために地蔵さんを作り、「子まもり地蔵」と名付けたものです。(被爆後に建てられたもので被爆地蔵ではありません)

 

写真は2012年5月16日撮影。

   
 原爆戦災史によると、当時の集団疎開児童は8365名、市内残留の児童は、その他の縁故疎開者を除くと15800名と推定されています。助かった住職も1951年放射能症のため亡くなりました。この墓地の周囲は無縁墓で囲まれています。墓にも被爆の傷跡があります。 時移り世変わり、「子まもり地蔵」も忘却に埋もれようとしています。8月6日だけがヒロシマではありません。声の無い叫びと訴えに、わたしたちは、応えなければなりません。

写真は2012年5月16日撮影。
   
 

また、市役所の近く、鷹の橋商店街の入り口の本屋の裏に「新本家地蔵尊」と書かれた木造の小さな社(やしろ)がありました。ですが、2012年3月再訪したところ、あたりはすっかり変わり、右の地蔵尊、見当たりませんでした。元のままの写真と文章を残しておきます。

この地蔵さんの言われは、新本(にいもと)家は元は吉島刑務所あたり一帯の地主で、笹森恵子(新本)さんのお父さんが生まれた100年くらい前、刑務所長から誕生祝に贈られた物ということです。原爆とは直接関係ありませんが、新本さん(お父さん)夫婦が被爆されたのに加え、3女の笹森さんが鶴見橋付近の建物疎開で重症を負い、ひどい顔になられていたのが、流川教会の谷本牧師やノーマン・カズンズさんの精神養子運動で、被爆乙女の治療でアメリカに渡ったことにるようです。笹森さんは、手術を受けすっかり良くなり、そのままアメリカで看護婦となり、人気者だったそうですが、日本人と結婚され、子供ももうけられており、アメリカで被爆証言もしているとのことで、何度か一時帰国されているとも聞きます。そういうことで誰いうことなしに「原爆慰霊碑」のように言われだしたようです。戦後ここに移されたのですが、20年位して元の地蔵尊そのものは盗まれ、新しい台座には新本家一眼地蔵とあり魂が宿っているそうです。

写真は2012年5月6日撮影。