左上の絵には
「水をくれー」「水をくれー」と私に言った。学校から帰る際、先生から「水を飲ませたら死ぬ」と注意があった。私はその場を逃げるように足早に行った。手を合わす姿が今も忘れられない。
1945(昭和20)年8月7日11時40分頃 中区富士見町 原 廣司
その下には
あの日をみつめてください
きのうを忘れては、あしたは見えない。
昭和20年8月6日の朝、この場所で何が起こったか。
写真の一枚もなく、ああ、どんどん忘れられていく。
どうか、目をそらせないで見てください。
この絵は、あの朝、この地で生き残った被爆者が渾身の力と万感の思い出描いた、この場所での眺めです。
どうか忘れないで! 日本の人たちよ、世界の人たちよ。
二度とこの光景が地球上に繰り返されないよう、この絵を見つめてください。
早坂 暁
まん中の絵には
ヒロシマ むなしからず 米田徑草
その下には
炎の季節よ
地のかさぶたの一片一片、剥ぎとるたび
噴き上げる白炎
はるかな空へ
衝き入らんとす、一本の
厚い願望
愛しめばこそ
炎えに炎え
灼けはててこそ
沸騰するもの
詩 米田栄作「路傍のみどり」より抜粋
右の絵には
死体の上に焼けたトタンがかぶせてあった。付近には収容されない死体が多く放置されていた。なんたる光景であろうか。1日前までは戦時下であってもみんな家族があり、元気に生きていたのに……
1945(昭和20)年8月7日12時10分頃 中区宝町 原 廣司
その下には
”原爆の絵碑”について
原爆が広島に投下されて半世紀以上が過ぎ、ヒロシマの被爆体験は風化しつつあります。
私達は生き残った被爆者が渾身の力を込めて描いたあの日の光景を、今の街と重ねるように置き、市民が日常的に被爆の実態に触れることで記憶を新たにし、核兵器廃絶への熱い思いとエネルギーを継承しようと決意しました。
原爆の絵による追体験が”ヒロシマは人類共通の被爆体験である”という認識を生み、地球・人類を破滅させる”核兵器の抑止力”となる日まで、この運動は続けられます。
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