17.原爆の子の像    (中区中島町1・平和公園北)
 

 別名「千羽鶴の像」とも呼ばれています。1999年のNHK8・6特集にもとりあげられ、「ヒロシマ」のイメージ的な像ともなっています。アメリカ・シアトルでもサダコ像や巨大な千羽鶴が作製されたり、イタリアでも「さだこ」の物語の演劇が行われたり、千羽鶴を通して日本や世界各地との交流が行われたりしており、訪れる人で知らない人は無いぐらいでしょう。1958年5月5日の子供の日に除幕されました。この像は2才で被爆し、幟町中学校1年生の時白血病のため亡くなった佐々木禎子さんを記念したものです。彼女は日赤病院に入院していましたが、ある日病院に届いたお見舞いの手紙の中にセロファンで作った小さな折り鶴を見つけて「鶴を千羽折れば、私の病気はなおる」と信じて薬袋や包み紙を使って一羽ずつ折りだしましたが、1300余りの鶴を折り続けましたが、1955年10月25日に亡くなりました。この話を聞いた級友たちは、小さくてもいいから、さだ子の墓を作ろうと計画し、それが大きな波紋をよび起こして、全国の3160校から募金が寄せられてこの像を建てることが出来ました。

塔の内部には、湯川秀樹博士から寄贈された古代の銅鐸を模した鐘が吊られ、その下に金色の鶴が吊るされて、風鈴式に音が出るようになっていましたが、この鶴は、盗難を恐れて平和記念館の中にしまいこまれたまま、紛失されていたこともありました(※出てきて資料館東館に展示されていますが、2003年7月27日、レプリカが造られ、元のように吊るされました。(下に)

左の写真は2013年5月17日 
   
 

 像にささげられる折り鶴は年間約十トン、一千万羽以上で、焼却処分のことを悲しんだことを契機に、禎子さんの通う筈だった母校、幟町中学校の後輩たちの手により、全国からの募金で、2000年3月25日には、新たに「折鶴の碑」(右)が序幕され、命日(10月25日)には毎年平和集会が行われています。

2001年4月1日に折り鶴をささげた人の名前や団体名などの登録受け付けを始め、データベースとして記録、礼状も送りはじめ、2002年4月1日に、折鶴台とフェンスも設置されました。

鐘の真下に置かれた黒御影石には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑銘が刻まれています。

 また市の方では、秋葉市長時代には、積極的に折鶴を捧げる子どもたちの心を汲んで永久保存する方針が検討され、旧日本銀行内で展示されたりしていましたが、松井市長になってから、保管場所が無いとの理由で永久保存方針は撤回され、再生利用方法等が議論されているところです。被爆建物の旧日本銀行内の展示は2012年3月31日に終了しています。

2005年6月15日撮影
   
 

「さだこ」さんの物語は、決して過去の出来事ではありません。チェルノブイリの原発事故で放射線を浴び子どもたちが、ちょうど禎子さんが発病した年齢になるに至って、次々と甲状腺ガンを発病し、多くの子どもが亡くなっていっていきました。広島でも何度もチェルボナ・カリーナの子ども達が公演しており、身につまされました。そしてついに2011年3月11日、恐れていたことが現実になりました。福島の原発事故、大量の放射線が撒き散らされました。これから何百万人ものサダコさんが生まれるのでしょうか?多くの子の寿命は縮まるのではないでしょうか?

また、イラク戦争では劣化ウラン弾(DU)が大量の放射性物質を撒き散らし、大きな被害を出してきました。地元の子どもから大人、兵士に到るまでの多くの人々が、「さだこ」さんと同じような症状を現わしたことにも目をそむけてはいけません。詳細はNO DU ヒロシマ プロジェクト ホームページ 参照

左は1999年11月撮影。
   
 折鶴展示台完成、元の吊るしてあった鐘のパブリカ取り付けと、放火にあった千羽鶴(2003年冬〜夏)
   
 

何度も放火に会い、またせっかくの折り鶴を雨梅雨から守るために、みんなの願いが実り下の写真のように2002年4月1日に、折鶴台が完成しました。(幅約一メートル、奥行き約三メートル、高さ約二メートルのブース九個で、骨組みはステンレス、屋根や側面に強化ガラスを使っており、約二百五十万羽を収容できるといいます。)(下の写真)

そして、当初当初吊るしてあった青銅製銅鐸と真ちゅう製千羽鶴(本物は資料館東館内)のパブリカが7月27日に吊るされ、金色に輝く、元の姿を取り戻しました。(中の写真)

みんなが喜んだのもつかの間、2003年8月1日午前7時55分ごろ、14万羽の折り鶴がに4基の台ごと燃やされてしまうという痛ましい事件が、8月1日、私達が見て回っている間隙に起こってしまいました。犯人は、就職に溢れてムシャクシャしている大学生とわかり、即日逮捕されましたが、なんとも痛ましいことです。(右の写真)  9月22日復旧しましたが。

   
   

2003年2月17日、午前4時ごろにも、折り鶴が燃やされたばかり、この時は推定で約五万羽が焼けました。それで下の写真のように折り鶴展示台が出来たばかりですのに。原爆の子の像の折り鶴が、放火や不審火などによって燃えたのはこれで8回目になります。上の写真は2003年8月1日午後3時ごろ皆さんと偶然訪問してみたところです。

(上と中の写真は2003年8月1日撮影)