25.韓国人原爆犠牲者慰霊碑 (中区中島町1・平和公園内中央) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この碑は、平和公園外本川橋西詰めの河岸緑地にひっそりと建てられていました。1970年4月、在日大韓民国居留民団広島県本部により建立されたものです。 この「慰霊碑」は、亀の台座と共に、双竜の図柄を刻んだ冠の中に収められた過去帳等、全てが韓国から運ばれきたものです。 過去帳等は取り出しにくいので、
新しい慰霊碑の場所になった際に、亀のまえに石の箱があり、その中に入っているとのことです。
死没者名簿に記載された犠牲者の数は2663人(2011年8月5日現在 )ですが、実際はその10倍以上の犠牲者が出ているはずです。 当初「平和公園外」に設置された経緯については、広島市は 2013年5月17日撮影 |
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、1970年当時は既に公園内は慰霊碑で埋め尽くされ、新設慰霊碑の設置は認めない方針だったので、被爆死した朝鮮王朝の末裔、李公殿下が救助されたゆかりの場所として、現在の本川橋西岸を斡旋したもので、決して「差別」した訳では無い、この慰霊碑が差別の象徴のように言われるのは、心外だ、と強く主張しました。確かに、朝鮮人たちが逃げ込んだ防空壕等もあったりして決して「差別」するつもりで、公園外に設置させた訳では無いでしょうし、また、市が「差別のつもり」を持っていたとしたらそれこそ大変なことです。
「差別の象徴」と見られるようになったのは、現実に「在日」の方への差別が今も根強いことにあります。被爆時5万人?も「朝鮮人」が、何故広島にいたのか、そして3万人?もの犠牲者が出たのでしょうか?、1910年以来35年にわたる植民地統治により故郷を追われ、また戦争末期には「強制連行」までやって、こんなに多くの犠牲者が出たのです。今、市街地南に拡がる三菱造成地は、多くは朝鮮人の手によって造成されたものです。被爆直後もひどい差別を受けたと聞きます。そこから生まれた現在の朝鮮半島の南北分断の歴史、現実の差別をしっかり受け止めていれば、平和記念公園の外に設置させなかったはずです。 「在日」という映画を観た方も多いでしょう。プロ野球の「王・長島」の時代、彼らにも負けない偉大な記録を残した「張本勲」。球界唯一の被爆者手帳を持っている広島は比治山裏の段原地区出身の韓国人選手です。彼は自ら「韓国人」と堂々と言って、韓国のプロ野球創設に力を尽くすのですが、彼が巨人在籍時代に、広島市民球場で浴びせられたヤジは、新聞報道に、「聞くに耐えない汚いヤジは慎んで貰いたい」とあったのを覚えています。直接聞いた訳ではありませんが、相当ひどい差別・偏見に満ちたものであったと憶測されます。民間アパート探しでも、朝鮮人だとわかると、まず他の理由を持ち出して断られるのが普通です。堂々と「朝鮮人だから」と差別する人はさすがに少ないでしょう。しかし、隠然たる「差別」や、この張本選手の例のように興奮した時には思わず飛び出す「差別」。百歩譲っても、この慰霊碑が「差別」の象徴と見られるようになったのも仕方がないことでしょう。 2013年5月17日撮影 |
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平岡敬元広島市長は韓国人・朝鮮人被爆者の問題に造詣の深い人で、期待されて1991年2月に就任されたのですが、やっと、退任を前にした1998年12月、「総連」「民団」双方の合意のもと、懸案の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の「平和公園内移設」にこぎつけ、多くの心ある人たちの募金により1999年5月21日に公園内で起工、7月21日ようやく完成にいたり、8月5日に慰霊祭が営まれました。 やっと同胞が安らかに眠れるようになったと関係者の喜びもつかの間、10月17日にペンキがかけられる事件が起きたりして、改めて「差別廃絶」の道のりは長いことを思い知らされました。慰霊碑の公園内移設だけで決して「差別」が無くなるわけではありません。 |
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写真右は元の場所の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の前で、被爆のことと共に、自らや在日同胞の受けてきた「差別」の歴史を、語り続ける元教師の故朱碩(チュソク)(2002年5月12日没75歳)さん。なお三菱徴用工裁判や救援運動については、三菱広島・元徴用工裁判を紹介するページに詳しいのでそちらを開けて下さい。下は、「テロと報復戦争」に対する「祈りのつどい」で、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」前で、心を込めて歌いこむ「在日」の方(2001年11月11日) なお、この故朱碩(チュソク)さん、韓国人被爆者を救援する活動に熱心な豊永恵三郎さん、このホームページにもたびたび出てくる故沼田鈴子さん等、熱心な語り部の方が所属していた「ヒロシマを語る会」(原廣司代表)は、残念ながら高齢化のため、2001年3月末をもって「解散」(個々の証言活動は継続)してしまいました。 |
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被爆者数と朝鮮人の被害状況
(被爆者援護法裁判パンフレットより) ※北朝鮮の被爆者数と今 なお、「北朝鮮の被爆者数と今」について、疑問があろうかと思いますが、戦前渡日した朝鮮人の多くは南側(今の韓国)が圧倒的に多く、北の数は少ないそうです。(北朝鮮被爆者支援を行っている方から聞いた話。) 昨年(2001年)末発足の「朝鮮原子爆弾被害者支援対策委員会」の調査の結果、被爆者は約1953人と確認(2002年6月26日付け中国新聞)していますが、生存者数は調査中といいます。 南と同様「渡日しての治療」は無料ですが、正式国交がなく交流は赤十字に頼っている状態で、それ以外の支援は何もありません。(韓国側には「医療支援基金」というのが、2年後に枯渇するといいながらありますが。) また、北の被爆者団体、「反核平和のための朝鮮被爆者協会」は、「日本が謝罪し補償しない限り、渡日治療を受ける気はない」と日本の態度を批判していると報じられています。 厚生労働省は2001年に、1353人被爆、内生存被爆者928人と発表していますが、本格的調査による数値ではありません。 ※在外被爆者問題 日本を出たら、いくら被爆しても何の補償も受けられない、という問題について、2002年7月2日から31日まで中国新聞で連載・特集されています。是非クリックしてみて下さい。(運動の主体側からのものは、上記のホームページから。) |
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