40.広島市立商業・造船工業学校慰霊碑の碑    (中区中島町1・平和公園内西) 
   
 

広島市立商業は戦争末期、造船工業学校に転換させられていた。
被爆当時県庁付近(水主町)の建物疎開作業に1年生270人、引率されて出動していて全滅。現場付近に生徒の弁当箱や服の焼け残りが落ちていただけで、遺骨もわからずじまいという惨状であった。そばの本川に飛び込んで、手足の自由がきかずそのまま溺れて死んでいった生徒もいたという。その他の動員先や登校中の死亡者を含め279名。碑は1963年に出来た。原爆は、建物疎開等で人々が外へ出たところを狙って投下された。被爆者の手記を読むと、爆心地近くで助かった人の多くは、家の中におり、家の下敷きになりながらなんとかそこから這いだす事の出来た人である。外にいた人は殆ど生き残れていない。